平野啓一郎の作品は、これまで読んだことがなかった。もっとも、割と最近まで小説を読むこと自体がめったになくなっていたから、これは彼の作品に限ったことではない。むしろ、読んだことがないにも関わらず、この人は私にとって不思議な縁を感じる作家なのであった。以下、作品の話は(ほぼ)一切しない。
まだ母が生きていた頃だ。唐突に「大学生が芥川賞をとったらしいよ」と話を振ってきた。「芥川賞もなにも、そんな高尚な小説読んでるの見たことないぞ」と返すと、「そういえばそうだね」と笑った。
本当にそんなやりとりをしたのか、実を言うと記憶が定かではないのだが、母のボケとも言えないボケに私がツッコミを入れて母が笑う、そんな他愛もないやりとりは幾度となくあったことは確かだ。そのときも、多分、そんなやりとりがあったろうと思う。
ここは「読んでみたら?」とでも言うところなのだろうが、その頃の母は病気のこともあって視力が酷く落ちていて、紙に書かれた文字を読むのがとても困難になっていた。元々読書家というわけでもないのだが、何か紙に署名しなければならない状況は少なくないから、そのたびに「何かができなくなる」ことの寂しさを感じていたようにも思う。
そんなこともあり、「読んでやろうか」と提案したところ、たいそう喜んだので、早速本屋に行ってその本を買い、読み聞かせのようなことをしはじめた。それが平野啓一郎の『日蝕』だった。
ものすごく難解な小説という印象だった。母も私もなんだかよく意味がわからないまま、ただ私がゆっくりと音読するのを母は聞いていた。そして、大抵はいつのまにか眠ってしまっていた。そんな調子なので、読み聞かせはろくに進まない。行きつ戻りつしながら、結局読み終えないまま、私の休暇が終わってしまった。「続きはまたこの次な」とかなんとか言ったのは覚えているような気がするが、確かなことは、それきり私も母も忘れてしまったということだ。
その母が亡くなってから十年が経つ。最近、少し小説を読み始めたこともあり、書店でこの作家の本を見かけて、なんとなく昔のことを思い出していた。そろそろ母の命日も近いことだし、供養のつもりで、読みかけのその本を読んでやろうかと手に取ってみた。
しかし、困ったもので、本を読むにはタイミングというのがある。私の場合、小説は特にそう感じる。書店で買う本を選ぶときには、まずは装丁や裏表紙の簡単なあらすじを見て、冒頭数ページを読んでみる。タイミングのあった本というのは、その時点で「帰り道の電車の中でだいぶ読み進めそうだ」という感じになる。最近の書店でのルーティンの一つが「『日蝕』を手に取ってタイミングがあったか確かめる」なのだが、なかなか読み始める気にならず、そのまま棚に戻す。これを何回か繰り返していた。
まぁ、とりあえず同じ作家の別の作品でもいいかな、と割とあっさり方針を転換して、たまたま手にとったのが『本心』だった。
母を作ってほしいんです──AIで、急逝した最愛の母を甦らせた朔也。孤独で純粋な青年は、幸福の最中で<自由死>を願った母の「本心」を探ろうと、AIの<母>との対話を重ね、やがて思いがけない事実に直面する。……(カバー紹介文より)
このタイミングがあってしまった感じに、思わず苦笑いしてしまった。もちろん、私は「母のAIを作ろう」とも思わないし、「最愛の」というには邪険にしすぎてしまった思うから、朔也くんとは全然違うけれども、しかし、奇妙な縁を感じてしまったのは否めない。本書を手に取り、会計を済ませ、それからしばらくかけて読み終えた。
私も、母の死に目に会えなかった。しかし、いつでも「もう一回」と言い、その「もう一回」を喜んでくれていた母のことだ、きっと、この世に未練たらたらであったろうと思う。「もう十分」なんて絶対に言わなかったはずだ。朔也の母親も、なんだかんだ言いつつも、結局<自由死>はしなかった。生きていれば訪れる「もう一回」を味わいながら生きていたはずで、そこに悔いはなかったはずだと、私は信じている。

