モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

偶然性・アイロニー・連帯:ローティの哲学

 リチャード・ローティについて、NHKの100分De名著シリーズから。

 

 まず、本書を手がかりに、ローティの議論をごく簡単に整理しよう。ローティが目指すのは連帯である。そして、これを阻害するのが「真理の探究」のような営みである。なぜか。第一に、この営みは会話を終わらせることを目的とする。第二に、この営みは、自身の発見した知識こそ「真理」「必然」と見做し、他者の語彙を否定し拒絶する態度につながる。こうした理由から、ローティは真理概念そのものを拒絶する。

 では、どうするのか。そこで目指されるべきは、(真理の探究ではなく)会話の継続である。そのためには、人は自己の語彙、文化、価値観、モラル等々が偶然の産物であることを自覚し、それらを他者との出会いを通じた改訂に開くべきである。……メチャクチャ簡略にしてあるが、大筋外していないはずである。

 

 しかし、ここでのローティの議論について、私は大筋において納得できない。第一に、ローティが言うような「自己の偶然性を自覚し、改訂に開く態度」を持つためには、真理と知識を区別し、自己の知識が誤りうること(可謬性)を自覚するだけで足りる。

 第二に、ローティは真理概念を手放してしまっているがゆえに、会話の向かう先を真理概念で統制することができない。つまり、嘘でもデマでもなんでもありになったとして、それではいけない理由がどこにもない。さらに言えば、そもそも会話を続ける必然性もない。

 

 関連して、ローティは「公共的なものと私的なものを統一する理論への要求を捨て去」ることを宣言する。確かに、公共的な正義と私的なあり方は一致しない。完全に一致することは永遠にないだろう。その上で、私たちが考えるべきは、完全な正義の概念をイメージしながら自己のあり方を反省し、作り直していく過程に開くことであって、先の「要求」を捨て去ってしまえば、その場に止まる開き直りへの道を開くことになる。これは(私の語彙で言えば)正義概念そのものを手放すに等しい。

 このこととも関連して、「ローティはトランプ現象をピタリと言い当てた」といった評価があるが、私からすると、逆である。トランプ現象、つまり、排外主義や歴史修正主義反知性主義やその他有象無象の融合と捉られるが、これらに現れている一貫した態度とは「真理・正義への侮蔑と拒絶」である。この点から見るならば、むしろ「ローティ(のような相対主義的態度)がトランプ現象を準備した」と捉える方が妥当だと、私は思う。やはり、ローティには乗れない。

 

 概説書ベースではそういう印象なんだけども。直接あたるとすると、このあたりか。