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「読んでいない本について堂々と語る」の必要と限界

 タイトルを読んだだけで思わずニヤリとしてしまうのではなかろうか。多くの人は、特に学者であれば、大なり小なり身に覚えがあるかもしれない(一応、「かもしれない」としておく慎ましさは必要かもしれない)。ただ、これは単なる怠惰と悪ふざけの本ではなく、いたってまじめな話でもある。

 

 明らかに、私たちが読む以上のスピードで、日々新たな本が生まれている。明らかに、すべてを読み終える日は永遠に来ない。まったく本を読まない人と人類史上最高の読書家を比べても、「ほとんどすべての本を読んだことがない」と言ってしまえば、その違いは限りなく小さい。
 その上で、この人類の知的遺産の山にどのように向き合えばいいのか。一つ挙げるとすれば、「一冊一冊の本の内容にあまり拘泥せずに、本と本の関係性に目を向けること」が重要である。たとえば、経済学徒であれば、『国富論』も『資本論』も『一般理論』も読んだことがなくても、アダム=スミスとマルクスケインズの経済学史上の意義について、ある程度は「堂々と」語れるようになる必要はある。

 読むという行為は、読みを一つずつ積み重ねていく、というだけの営みではない。そこには解釈学的な循環構造──全体の意味は部分の意味によって規定されるが、部分の意味は全体の意味によって規定される──がある。ゆえに、私たちの読みは、部分と全体の間を行ったり来たりしながら、いわば螺旋状に進められていく必要がある。これは一本の論文、一冊の書物を読むときにも言えることであるが、人類の知的遺産全体があたかも一冊の書物であるかのようにイメージし、その全体像に目を向ける、このような視点もとても重要である。

 その意味で、「読んでいない」という状態の多様性──「ぜんぜん読んだことがない」「ざっと読んだ」「人から聞いたことがある」「読んだことはあるが忘れてしまった」──に目を向け、私たちの読みの頼りなさをシニカルに抉りながら、読みの多様性を裏側から浮き彫りにする手際は見事と言う他はない。

 

※解釈学的循環に注目しながら、本を精読していく方法について解説した本。高校生・大学生に是非読んでほしい。

 

 しかし、終盤に至り、「読んでいない本について語ることはまぎれもない創造の活動なのである」とまで言い切り、「むしろ読まない方が良いのだ」と言わんばかりに煽っているところは、さすがに勇み足に感じる。

 既に述べたように、解釈学的循環を念頭に置くとき、また、人生の有限性を考えるとき、「(できるだけ読まずに)全体像を捉える」という姿勢は重要である。しかし、読まずに到達することのできる理解というのは、大抵の場合、せいぜい平均的了解性のレベルにとどまる。さらに言えば、実際に読めば明らかなはずの見落としや誤解さえ含まれうる。このレベルを超えて、テキストの新たな可能性を探っていくつもりがあるなら、細部の精読はどうしても必要だ。 

 そんなことは、筆者だって承知の上だろうに、筆者の筆致が魅力的すぎて、「むしろ読まない方がよい」と本気で信じてしまう読者が出てきかねない。だとすれば、それは危険だし有害だと思う。実際、筆者がエピグラフに採用しているオスカー=ワイルドにしたって、書物全体を「読むべき本」「再読すべき本」「読むべきでない本」の三つに分けている。つまり、「読むべき」「再読すべき」本はあるのだ。

 人生は有限だから、読む本は厳選すべきだ。それに「読むべき本」も、「まだ」読んでいないという状態は常にある。だから、「読まないままに、堂々と語れる」に通じる洞察力、全体像へのセンスは磨くに越したことはない。しかし、その限界を承知しておくことも、同じくらい重要だ。

 読まないままに位置付けだけを把握しておいた本が、あるタイミングで「読むべき本」に変貌することがある。というよりも、そのように機が熟すのを待つために、読まないままに位置付けだけは把握しておくのだ。いつか飲む日をたのしみにしつつ、ワインセラーにしまっておくように。よくできたワインであるならば、飲まない方がいいワインなんて、あるわけがない。
※というようなことは、最後の最後までちゃんと読めば、書かれているように思うよ。大事なことは「自分自身について語る」こと。