モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

「狂った世界」のライフハック

 http://d.hatena.ne.jp/sk-44/20091023/1256241079
 http://d.hatena.ne.jp/sk-44/20091006/1254813776 では「まさか宗旨替え?」と一瞬思ったけど、sk-44さんはsk-44さんなのであった。ちなみに、sk-44さんを特徴づけているのはある一つの断念であり、僕を特徴づけているのはその断念の拒否だと僕は思っていて、だから議論はいつも同じところをグルグルまわる。なんどもまわっているうちに見えてきたことも、多分、ある。


 問題は自己欺瞞にある。だから、それを叩くのだけれども、しかし、自己欺瞞があるからこそ人は生きていける。そういう側面があることを知らぬわけでもない。そのことに積極的に言及したことはないけれど、僕にせよ日常を日常として生きていることは機会あるたびごとにいつも述べてきたのだから、それを無視してきた、というわけでもない。ともかく、たまには、こちら側から話を始めてみるのもいいだろう。

 自己欺瞞というのは、一番簡単に言うなら、「自分をだますこと」である。そうして、都合の悪いことを意識の外に閉めだしてしまう。すると、日常がつつがなく送れる。そういう案配である。しかし、そんなに都合のよいことばかりでもない。なぜなら、「自分をだます」のは根源的には不可能なことだからだ。「だます」のであるからには、「だます」自分は本当は「知っている」のである。「知っている」のであるから、いつでもどこでも思い出す契機がありうる。自己欺瞞は、必ず綻びている。

 だから、人は自己欺瞞ゆえに生きていくこともできる、というのは、事態の半分しか述べていない。自己欺瞞は必ず綻びているのであるから、綻びから覘くものを見てしまうのでもあり、それが私たちを苛む。ゆえに、私たちは苦しむ。私たちは自己欺瞞ゆえに生きていけると同時に、自己欺瞞ゆえに苦しんでもいる。

 試みに、自己欺瞞をはぎとってみよう。そして、筋を通したすがすがしい生を生きてみよう。──そんなことは不可能だ。ゆえに、そうした「すがすがしい生」は、それ自体が欺瞞である。そのことにも、やがて、あるいは、既に、気付く。「狂った世界」において正しい生は可能か。文字通りに答えるなら、もちろん不可能だ。こうして、私たちは袋小路に迷い込む。だから、みんないらつくんだろうね。当然、sk-44さんのことではない。でも、ともかく、それって本当に袋小路か、とは常々思っている。


 狂った世界は狂った世界であり続けるしかないのではない。それがどれほど強固にそびえ立つ構造であるとしても、一つ一つは人間の営みが作り出したものの集まりなのであり、ゆえに、一つ一つの人間の営みによって変えうるものである。もちろん、変えるための一つ一つの営みは、狂った世界の中でなされる。だから、一筋縄ではいかない。しかし、それは「正しく生きる」ことはできないとしても「正しく生きる」ことができる世界に向けて生きることはできることを示している。そして、それ以上のことは望みようがなく、そうであるなら、私たちはそこで腹をくくることもできるはずである。

 では、自己欺瞞とはなにか。むしろ、次のように考えるべきである。私たちは、狂った世界の中で、淡々と一筋縄ではいかない真摯な「思考と実践」を積み重ねていく。そのとき私たちは、その退屈で先の見えない営みに耐えるためにも自己欺瞞を使うことができる。これは、徹頭徹尾自己欺瞞の海の中にどっぷりつかって生きるのとは違う。自己欺瞞があるからこそ生きていけるのではない。自己欺瞞があるからこそ、戦える。ただし、そのためには、ときどき自己欺瞞の外に顔を出さなければならない。息継ぎをしなければならない。自己欺瞞の中に留まり続けるなら、その中に溺死するしかないだろう。

 文化というのは、確かに、欺瞞のテクニックではある。ただし問題は、欺瞞の用い方にあるのだとすれば、そのことは問題ではない。私たちは、狂った世界で、日々を楽しむ。日常を生きる。それでも、狂った世界と戦うことができる。というより、そうだからこそ、狂った世界と戦うことができる。戦う人間は、生身の人間であり、一人分の魂であり、この世界の中に基盤なくして戦うことのできない存在なのだから。そして、狂った世界の中にいてなお解放の可能性があるとすれば、戦うことの中にある。

 もちろん、これがもう一段高次の自己欺瞞に過ぎない可能性ならある。しかし、自己欺瞞に陥る可能性があるからより手前の自己欺瞞に留まろう、というのは馬鹿げた話なのであって、選択の余地なく、私たちは前に進むしかない。もし、そこが高次の自己欺瞞に過ぎないなら、そこで考え抜いて、もう一段上ればいい。自己欺瞞の中に留まっても溺れるだけだ。繰り返すが、前にしか道はない。


 僕は断念しない。断念しないが、断念するとすればそれはどのようにか、とは考える。たとえば、僕は、表現規制に賛成することがありうる。その賛成は、規制が事態を改善しうるとか、そういうことを考えるからではない。僕の知る限り、規制が事態を改善することはない。しかし、これはハッキリと述べておくが、事態が悪化するのでもない。

 僕は権利が欲しいのであって特権が欲しいのではない。権利を擁護するのであって特権を擁護するのではない。だから、求められるときには、すべてが求められる。断念するときには、すべてが断念される。仮に「その表現を脅威とする人たち」の自由が断念されるしかないのであれば、僕は一切を断念する。逆に、自由が求められるなら、「その表現を脅威とする人たち」の自由も「その表現を必要とする人たち」の自由も共に求められる。

 それらが両立困難であるとしても、それが目指されもしないのであれば、それこそ欺瞞ですらない。そして、そこにおいて事態は既に最悪なのであり、それ以上に悪くなりようもない。だったら、より破壊的な方を選ぼうかな、というのは単なる僕の趣味。そこに正義もへったくれもない。でもその前に、僕らにはできることがあるし、試されていないこともある。その言い訳において永遠の先延ばしをしているだけかもしれないが、つまり、それもまた欺瞞かもしれないが、だからといって手前の欺瞞に留まる理由もない。元より、前にしか道はないのだから。