モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

死刑制度には反対するけれど

 「だから死刑には反対する」と、そこへ寄せられたブクマコメントなどについて。いろいろと、曖昧さの残るところについても、もう少し付け足して考えておく。*1


 僕の死刑反対論は、基本的には終身刑という刑が存在することが前提。しかし、現時点では終身刑なるものはないから、死刑でないならば無期懲役以下の刑ということになり、かなり現実的な未来に被告人が刑を終えて出てくる可能性がある。そうなるならば、正直、心中穏やかではいられないだろう。まして、身近に住まれる、なんてことにでもなるならば。だから、死刑制度には反対なのだけど、今回の死刑判決に反対できるかと聞かれるならば、さすがに迷う。あえて、どうしてもどちらかを選べ、と言われるなら、「死刑判決に反対」と述べるかな。人が人を殺す、しかも、そのことを正しいと言う、そのことは僕にとって、その程度には重いことだ。──もちろん、このように考えているならば、本村氏の主張や、判決でも制度でも死刑に賛成という人にも同意できない同意していない、ということは明白だろう。もちろん、今のところでは態度表明に過ぎず、何も論じてはいない。(イタリック部分、追記)


 死刑とは、被告人を社会に再統合することを念頭におかない/おくことのできない、唯一の刑罰である。どんな刑罰であれ、殺さない限りは、被告人を社会に再統合する可能性に開かれている。しかし、死刑はそうではない。死刑は、再統合の断念である。そして、死刑を支持する人たちの多くが、どうも再統合を断念している、ということを実際口にしている。それはそれでいい。しかし、そうであるならば、死刑を正義の実現と見なすことは間違っているといわざるを得ない。

 整理しよう。仮に死刑にするのならば、「被告人が私たちの共同体の一員であって、共同体のルールに示される正しさに基づいて死刑に処す」というものだとは、言えない。そうではなく、「被告人は私たちの共同体から切り離され、そこで既に、被告人と被告人を切り離した私たち共同体との間には正しさについての共通の基盤は何もなく、死刑は、そのような前提を共有できないものの間の無根拠な暴力でしかない」。そのことを認めるべきである。正しさに基づいて死刑にするのではない。被告人と私たちの間において正しさという観念を無効にし、そこでのみ死刑が可能である、ということだ。

 このような筋道で死刑に賛成するならば、それは少なくとも首尾一貫しているとは思う。逆に言えば、死刑を正義とみなすいかなる主張も、それは「私たちの」正義という意味なら理解できるが、単に強い方が勝ったという以上の意味を持たない、ということだ。私たちは、少なくとも、被告人との間で、正義という観念を断念したのだ。そのように正直に述べるべきであると思う。私たちが作ることのできた正義は、その被告人との間で無効になってしまったのだ。それは私たちの正義の敗北である。

 もちろん、敗北するしかない状況もある。というより、ありふれている。私たちは殺して食わねば生きることはできず、そのとき、殺して食った相手との間で、私たちの正義は挫折している。しかし、それでも、挫折する必要のないところでまで挫折しなければならないわけではない。被告人は捕らえられた。そこから決して出さない、というのであれば(つまり、終身刑であるなら)、殺す必要は、とりあえずない。だから、やはり、僕は死刑に賛成しないのである。──このことは、相手を殺したいと考えることとは関係がない。むしろ、殺したいと考えうるからこそ、死刑に賛成しない、ということでもある。


 で、罪の償いということについて。多くの場合に、そして今回もそうだと思うが、罪を償うなどということができるはずがない。ただ、罪を償うとは、「それでも」償う、ということのはずだ。償いきれない罪に対して、償い続ける。死ぬまで。死ぬまで償い続けて、それでも償いを終えることにはならず、しかし、それでも償い続ける。償いとは、そのようにしてなされるものだし、そのようにしてしかなすことはできないもののはずだ。罪を償うとは、罪を償うようにして一瞬一瞬を生きることであり、死ぬまでそのように生きることだ。それ以外ではありえない。

 死ぬことによって償うことはできない。それは、償い以外の何かではあるかもしれない。遺族や被害者にとっての慰めでありうることは否定しない。しかし、だから、「自分の命で償え」という言い方は、正確ではない。それは償いではありえない。死刑が正義ではないのと同じように、死は償いではありえない。──同時に、被告人の死に慰められると主張することにも、俄かに首肯できないところがある。


 話を変える。光市事件の被告人の自己欺瞞ということを問題にしたのだが、これはきわめて特異な、珍しいケースなのだろうか。そんなわけがない。そこら中にあふれかえっているではないか。たとえば、toledさんとこの「自由と強制と(無)責任の政治学」シリーズだとか、zarudoraさんとこには、そういう具体例が腐るほどある。また、hokusyuさんの最近の記事。>「「平穏な生活」という欺瞞」

 列挙するとキリがないので一例だけをあげるならば、たとえばイラク戦争において、少なくともあの戦争を支持したわが国の首相(当時)は、その首相を諸手をあげて支持した一人一人は、その責任をどのように受け止めているだろうか。光市事件の被告人に勝るとも劣らない荒唐無稽な自己欺瞞を弄して、己の責任、己の間違い、己の罪について、率直に認める人がどれだけあるだろうか。──このように述べると、それは話が違うとか、話をそらしているとか、言う人があるだろうから、先に述べておく。自己欺瞞とは、薄々は何かおかしいと自覚していても、それを思考の領域から全力で追い出しているので、それを自分が認めるその瞬間までは、むしろ批判の方こそが荒唐無稽に感じられる、真にそのように感じられる、そのようなものである。だから、よくよく、己の心の中を注視するべきである。

 その上で、一つ、予言をしておく。僕のこの記述に対する批判は、一つとして、イラク戦争への支持への責任を解除する説得的な議論を示せないことは当然のことながら、そもそも示そうともしないだろう。ただただ、光市事件とイラク戦争をつなげるなど、何の関係もない、すりかえだ、違う話だ、と、中身の一切を検討しないままに、その関係についての結論を投げつける、そういう批判だけがなされるだろう。──一言で言うなら、その批判の形式が、自己欺瞞の存在を証拠だてるような、そういう批判だけがなされるだろう。

 もちろん、それでも死刑にするべきだ、それを支持したいと言うことはできる。しかし、その場合には、その恣意性も含めて、正直に認めるべきだと思う。政治的な支持を通じてイラク人を殺すことは罪ではないが、目の前の女性と子供を殺すことは罪である。それが私(達)の正義だ、と。正直に言えばいい。もちろん、言って終わり、ということにはならないが。しかし、少なくとも、嘘抜きに筋を通していくべきだと思う。話はまず、そこからだ。

*1:まぁ、内幕をバラすと、正直、今回のも前回のも、おっかなビックリの記事ではある。どこまでイケていてどこがおかしな議論なのかは、自分でも時間をかけて検討してみないと分からない。死刑賛成派の中には、確かにあさはかなものもあるけれど、そればっかりでもないし、反対派の中にもおかしなものはある。僕も事と次第では賛成派に傾きかねないところを、自分の中に感じる。だから、この問題は丁寧に考えたいし、それだけでなく、丁寧に考えられてほしい、とも思う。