社会正義の論理学
最近、まったくネットを見ておりませんでした。コメントなども、いくつか放置していてスイマセン。おいおいレスをつけていきます。試運転的に、一ヶ月ほど前に書いたまま放置してた記事をアップしておきます。とりあえず、単純明瞭なこと(としか思えないこと)を、確認しておきます。
さて、僕は「すべての人を守る」ことを社会の目的としました。これを命題Aとしておきましょう。Aの否定は、「少なくとも一人の人については守らない」となります。排中律*1を認めるならば、こうなります。例外はありません。
もちろん、排中律を認めない立場の論理学もあります。たとえば、「Aである」、「Aでない」のほかに、「Aであるかどうかわからない」という三値の可能性を認める立場にたつとしましょう。しかし、ここで私たちが要求されているのは、論理学上の立場ではなく、社会のあり方に関わる具体的内容に対する立場です。別様にいえば、形式に対する態度ではなく、実在に対する態度を明らかにすることが求められているわけです。「Aであるかわからない」として、「「Aである」を前提する」、「「Aでない」を前提する」、どちらですか?」と尋ねてみればよいわけです。
仮に三値論理の立場にたつとしても、あるいは、ほかのどのような立場の論理を採用するとしても、私たちが問題にしている具体的な文脈において二値論理の述語に書き換えることができるわけです。(少なくとも僕が問題にするような)社会正義の文脈においては、そうなっています。あるいは、「わからない」以外の、別の値を許容する論理体系を考えるのも、自由です。しかし、その場合には、具体的にどのような値を許容するのか、体系の中でどのような性質を持つのか、ちゃんと明示してくれるのでなければ、単なるゴマカシに過ぎないということになるでしょう。
以上のことから、社会の目標を何とするかという問題への答えとしては、「すべての人を守る(少なくともそれを諦めない)」か、「ある人については諦める」か、そのどちらかしかありえず、すべての人は、この二択の中で立ち位置を決めるしかない。そのような状況に置かれているわけです。
思うに、社会正義の一つ一つの論点に対する態度は、基本的には二択です。意見の多様性も、様々な論点に対して選ばれた「二択のうちの一つ」の、組み合わせの多様性に過ぎない、と僕は考えています。それは、意見の多様性というよりも、論点の多様性、と考える方がしっくりくるような気がします。
さて、問題は明らかであり、答えは二択ですから、本来単純な問題のはずですが、そのようには考えられていません。その原因が問題の難しさにはないことは、ここまでの議論の簡単明瞭さをみていただければわかると思います。問題はむしろ、この単純さを「直視しない」、「したくない」とする意志、すなわち、自己欺瞞にある。そう考えざるをえない状況がある、といえるわけです。それゆえ、自己欺瞞についての分析することは、愚直に理路を示すことと同様に重要になるわけです。
*1:「「Aである」かつ「Aでない」ことはない」。あるいは、「「Aである」または「Aでない」である」。