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自分を棚上げにするということ、隠喩の問題

 「村上春樹による政治的なスピーチと、湧き上がる非政治的な解釈」@ブログのきおくそうしつ  Amnesia on the Blog

 だいたい、断りがない限り、文章の順に引用しています。

「えげつない国家」とはどこの国のことか

あんなえげつない国家に加担しないというのは、まあ、まともな感覚といえる。ただし「どんな国も支援しません」と最後に付け加えるとき、イスラエル国家のやっている極端な不正義を、村上は絶対視せず相対化してしまっている。

 僕は、イスラエルを「あんなえげつない国家」と言うときに、自分が日本国籍を持つ人間であることを考えないではいられません。北朝鮮を「あんなえげつない国家」と言うときに、やはり、日本国家が不問に付されているのを見ても、違う、と思うでしょう。ここでの「どんな国も支援しません」という追記は、不可欠でさえあります。

 と述べたら、相対化でしょうか?僕は、自分を棚上げにするのかしないのか、という問題だと思いますけど。

隠喩にすることの意味

「《イスラエル》=《壁》で、《パレスチナ》=《卵》だ、というのはすぐ思いつくことだが、そんな単純なことだけを含意したいのではない」という力点を持っていることである。

 イスラエルパレスチナといった構図を作り出した上で、どちらの側にも立たない、というようなことは、もちろん誤っています。パレスチナ側にもイスラエル側にもどちらにも死者はいるから、どっちもどっちだと述べることも、もちろん誤っています。しかし、弱い者の位置に立つとは、どういうことでしょうか。それは、たとえば、イスラエルパレスチナ(あるいは、ハマス)といった構図を作り出した上で弱い方の立場に立つ、といったようなことではありません。もちろん、パレスチナ側にもイスラエル側にも死者はいるが、とりあえずパレスチナ側の方が弱いから、パレスチナ側に立つ、というようなことでもありません。

 少なくともいくつかのことを、イスラエルパレスチナという構図を導入する以前に考えておくべきです。それが、卵の側に立つ、ということの意味です。すべての犠牲を、分けることなく、まずは、犠牲として受け止める。そこから出発するのが、卵の側に立つ、ということの意味です。そこから出発するならば、なにが見えるか。それらすべての犠牲が、イスラエルの占領政策という一点から生まれてきていることがわかります。パレスチナの側に立つ、というのとも違い、問題はそこにこそあることが、明瞭にわかるはずです。>「本気でイスラエルがかわいそうだと思うなら」

 このような態度は、パレスチナイスラエルという構図において、どちらの側に立つものでもありません。ただし、これが中立を意味するものではないことは明白でしょう。そもそもの構図を拒否している、ということです。両方の立場に対して、中立ではなく、批判している、ということです。これが、壁に対して、卵の側に立つ、ということの意味です。


 ただし、弱者の側に立つという場合でも、異なるたち方があることを強調しておきましょう。一つは、都合のよい弱者を引き合いにだし、ほかの弱者が見えなくなるようなやり方で、弱者の側に立つ立ち方があります。「代弁すること、加担すること」で批判したようなスタンスのことです。

 そうではなく、弱さの概念を媒介して、弱者の側に立つという立ち方があります。切り離され分断される弱者をつなげていくようなやり方で、弱者の側に立つという立ち方があります。「特定の弱者の絶対化」という類の批判を考慮するなら、こういうやり方しかないでしょう*1。存在をつなげる、とはそういうことだろうと考えます。

その「隠喩」に乗っかって言説を繰り広げることを、わたしは「文学的だ」(悪い意味で)と批判しているのです。ああいうスピーチにことばが誘発されるのは、正直見ていて恥ずかしい。小中学校の国語で、その手のくさい「隠喩」がすばらしいものであるかのように、習いませんでしたか。noharaさんが特にそうだとは、思いませんが、多くの村上擁護者の感性は、非常に幼稚なものだと感じています。
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20090221#c1235225985

 その上で問いたいですが、村上がやったことは、メタファーで現実を覆い隠した、ということなのでしょうか。それとも、現実とされた何かによって覆い隠された別の現実をメタファーによって明るみに出した、ということなのでしょうか。僕は後者だと思います。これは「隠喩だから、その曖昧さが高級なのだ」といった感覚とは全然違うものです。少なくとも、ここで村上が表現していると僕が考えたことを、tmsigmund氏(やkurahito氏)がちゃんと掴まえているようには見えません。メタファーを曖昧さとしてのみ捉えて批判している人は、つまりは、自分たちがなにかを具体的に指示することによって生じさせている曖昧さに鈍感なだけではないか、と思ったりします。まぁ、村上のスピーチを丁寧に読む前は、僕自身が、そのように鈍感だったということを告白せねばなりませんが。

「ガザの虐殺」と「市民的な苦悩」

……村上が一番訴えたいことが、「《個々の人間》=《卵》、《壁》=《システム》」という極めて陳腐な、どこにでもあるような社会論もどきのことであることがわかる。いや、これはこれでそういうことがしゃべりたいならなんとでもしゃべればいい。しかし、2段落目の誰もが連想せざるをいえないガザの現実の生々しい問題よりも、3段落目のこのことが重要であるかのようなコントラストは、見過ごせない点である。ガザの苦しみと、イスラエル人たちの市民的な苦悩が、同じことか、いや、むしろ後者の方が村上の大きな関心ごとだと述べていることになるからだ。

 僕は、世界のどこかでヒドイ虐殺が進行しているというニュースを聞いても、家族の具合が悪ければその心配をし、虐殺のニュースについて忘れています。つまり、「ガザの虐殺」より「自分の市民的な苦悩」が、大きな関心ごとである、としかいいようがない生を僕は生きています。「自分の市民的な苦悩」より「ガザの虐殺」を重く位置づけるような生を生きている人がいることは知っています。ただし、私はそれをしたくありません。正当化するつもりはありませんが、したくありません。それを前提にモノを考えています。

 だから、次のように言うわけです。「ガザの虐殺」より「自分の市民的な苦悩」が大きな関心ごとであるような生を生きていても、それでもできることはあり、皆がそれをやりさえすれば、足りるはずだ、だから、それをやるべきだ、と。その意味で、僕が書いていることは、いつでも「「ガザの虐殺」より「自分の市民的な苦悩」が大きな関心ごとであるような生を生きているような人」に向けた文章です。その意味で、いつだって船上スピーチです。

 「ガザの虐殺」より「自分の市民的な苦悩」を優先することを、あくまでも批判する、という行き方もあるでしょう。止めはしません。しかし、僕はそういう生き方をする気はありません。それを批判するならば、おっしゃるとおり、と返すだけでしょう。その上で、「ガザの虐殺」より「自分の市民的な苦悩」が大きな関心ごとであるような生を生きていてもできることをやるだけで足りる、その可能性に賭けます。ついでに言えば、僕らが守ろうとしているのは、「自分の市民的な苦悩」が大きな関心ごとであるような生を生きる権利のはずなので。


 その上で、その権利を剥奪されている人たちのことを考えないではいられないでしょう。僕から、ガザの人に向けて言えることは、たとえば、次のようなことです。>「「勝ち組」からの応答──赤木論文を検討する」
 つまり、大したことは言えません。見捨てている、ということです。見捨てなくても助けられないと思いますが、それは見捨てることの理由にはならないでしょう。見捨てている、ということです。僕は、条件闘争をやっています。最低限、こういうことならやるかな、というのは次に書いたとおり。>「「勝ち組」が「勝ち組」に向けて語る」
 これで満足できない人が船の上の僕を敵とみなすなら、それは仕方のないこと、僕は全力で撃退するのみです。撃退しながら、やると決めた仕事はやるのみ、です。


 その意味で、「ガザの苦しみと、イスラエル人たちの市民的な苦悩が、同じことか、いや、むしろ後者の方が村上の大きな関心ごとだと述べていることになる」を「見過ごせない」と述べていることを、僕は見過ごすことができません。それって、ガザのパレスチナ人の位置でモノを語っているってことでしょう。別に、語る人がいてもいいとは思いますけれども、少なくともその意味は明らかにしておきたいと思います。

主題化しても隠蔽していると言われる

なぜ村上はこんなこと(注・父親のこと)を、わざわざイスラエル人に話しているのか、あなたは考えたのか? ここで村上が無意識に何を告白しようとしているのかを、ちゃんと指摘している日本人は、おそらくほとんどいないだろう。幼い村上が直観し、現在の村上が自覚しているのは、この父親が中国戦線で多くの中国人を殺してきたはずだということである。1940〜43年あたりの召集だったからには状況的にも、そして父親の振る舞いからも、類推される。しかし彼ら親子は、そのことを語り合うことはなかった。こうして人前で告白する今になっても、村上は、父親についてのその強烈な出来事を事実化して本当に受け入れるようには向かわず、「死の影」というような不安の印象として曖昧にしてしまう。

もうそろそろあなたも気づいただろう。この態度は、自分の父親や兄弟や子供が、パレスチナ人を殺していることに気づきながら、それを見ないよう知らないよう話さないようにするイスラエル人の態度であることを。村上は、イスラエル人の「苦悩」を理解し、なだめる立場に自分がいることを、非常に具体的な経験として表明したのである。

 正直、この解釈は本当にわからない。おっしゃるように、イスラエル人の大半は、自分の親や子どもや兄弟姉妹や恋人や友人が、また自分が、パレスチナ人を殺してきていることを知っており、それを「見ないよう知らないよう話さないよう」にしているのでしょう。それを打ち破る必要があります。しかし、それを話題にするということは、それを問題にする、ということです。普通は。隠蔽したいなら、父親の話など、しなければよいわけです。しかし、村上はわざわざそのことを語っている。tmsigmund氏の解釈は逆ではないでしょうか。

 まして「彼ら親子は、そのことを語り合うことはなかった」というのはどうでしょう。これも事実と正反対と言ってもいいのではないでしょうか。彼らは語り合っている。写実的に、雄弁に語ったわけではないのでしょうけど、それをもって「語り合うことはなかった」と言うのは、ただの傲慢です。

解釈ゲームの外はない

 ここで、先頭に戻って引用します。

村上のスピーチに自分たちのヒューマニズムの正当性のあらわれを見出そうと、あれこれ解釈を繰り返すのは、ほとんど不毛であると思う。どうも自己満足を得るのに忙しくて、重要なポイントを見過ごし始めているのではないか。

 tmsigmund氏は、少なくとも、村上のスピーチに対する解釈を示しています。それに基づいて批判しています。それって、「授賞式が行なわれる前の時点で「イスラエルの『エルサレム』賞を受賞するというのは、いかにも村上春樹に似つかわしいことだ」とわたしは書いた」に正当性を与えるためにあれこれ解釈を繰り返している以外の何物でもない。自分が同じことをやっているという自覚はないのでしょうか。

 kurahito氏も同様です。分析と称して、それぞれの部分が意味することを解釈してしまってるんですから。解釈ゲームの外なんてありません。


 特に、オチはつけません。以上です。

*1:「つなげることに失敗している」という批判はありえます。しかし、そのような批判は「もっとうまくつなげる」ことを試みることにつなげなければなりません。