代弁すること、加担すること
「村上春樹のエルサレム賞受賞スピーチについて」
半ば名指しで批判されていることですし、応答したいと思います。
代弁の問題
驚くべきことに、村上には、「ここに来ることを決心」するにあたって、パレスチナ人に自分の受賞がどう映るか、ということを考慮した形跡は欠片もない(少なくとも、そうした点への弁明が必要だとは全く考えていない)。日本での、村上への呼びかけしか眼中にないのだ。
また、村上は、自分のスピーチが「政治的なメッセージ」でないことを繰り返し語っているが、パレスチナの民衆から見れば、イスラエルの蛮行を世界的大作家は拒絶していない、という「政治的なメッセージ」以外の何者でもないだろう。もちろん村上がスピーチで、例えば、「賞金の1万ドルは、全額ハマスに寄附する」とでも表明すれば話は変わってくるだろうが。
もちろん、「パレスチナの民衆から見れば」という視点は大事ではあるんですが、この語り方はどうでしょうか。金さんは、パレスチナにありうるさまざまな声のうち、村上に批判的であろう声のみを特権的に参照しているように見えます。このようなスタンスは妥当だとは思えません。パレスチナの中にも、さまざまな声があるはずです。
たとえば、どんな声がありうるでしょうか。僕は本ブログのコメント欄のやり取りの中で、こう述べたことがあります。「確かに、ガザでは好意的に受け入れられる可能性は高いですね。彼らはあまりにも孤立しているから。それは悲しいことでもありますけれど」。沖縄でもあったりしますからそういう想像をするのですが、パレスチナの人々の中には、散々打ちのめされているために、また、国際社会から見捨てられていると感じているために、少しでもパレスチナ人に思いを馳せた内容がそこに含まれていれば、それだけで過剰に喜んでしまう、という人もいるだろうと思います。場合によっては、他のところで矛盾したことを言っていてさえ、喜んでしまう人さえいかねない。もちろん、そういう人もいるだろう、という想定から、村上の発言を擁護するようなことをしてはなりません。それもまた、自分に都合のよい声だけを聞こうとする態度です。ここでは単に、さまざまな声がありうる、ということだけを指摘しておきます。大事なことは、都合のよい声だけを聞こうとする態度を戒めることです。
ただし、村上を批判するな、というのではありません。「パレスチナの民衆から見れば」こうこうだという、代弁の形式で批判するのはおかしい、ということです。代弁されたパレスチナ人が異議申し立てをする可能性が皆無であるところで、そのような言い方をするのは、やはりよくない。では、代弁を一切禁欲すべきであるのか。僕はそうは考えません。たとえば、「代弁されるべき声」と思うその声の言わんとするところの内容を、普遍的な形式を借りて、自分自身の声として、語る、そういう方法があるかもしれません。あるいは、ある一つの「声」を特権的に代弁することにならぬよう、できるだけたくさんの「声」を束にして示す。そういう方法もあるかもしれません。それではダメかもしれませんし、他にいい方法があるかもしれません。いずれにせよ、その意味で、僕は代弁しようとする欲望を肯定します。しかし、ストレートに代弁してしまうことは、やはり危険だと思います。
加担の問題
もちろん、エルサレム賞を受け取ること、それ自体は、イスラエルの体制に対する加担です。講演の中で、それをどれほど批判しようとも、加担です。そうでないわけがありません。しかし、私たちはそもそもエルサレム賞を通じてのみ、体制に加担しているのではありません。
たとえば、僕はイスラエル支援企業のボイコットリストを、このブログでも紹介しました。そのリストにはインテルやマイクロソフトも含まれています。しかし、今僕は、インテルのCPU&マイクロソフト・ウィンドウズ搭載のパソコンで、これを書いています。もちろん、これは体制に対する加担です。加担であるから、その上で何を述べたとして欺瞞であり茶番である、何の意味もない。そんな風に評する人がいるならば、僕は断固反対します。
システムは、隅々にまで及んでいます。システム批判さえ、システムの一部としてしかなしえません。常に、どこかでは加担しています。ゆえに、加担を含む抵抗は、抵抗としての価値を認めないとするならば、抵抗などそもそもまったく不可能になるでしょう。結局不可能だ、というシニシズムにゆきたいなら別ですが、そうではないはずです。私たちの足場は、そういう加担を含んだものでしかありえません。
ゆえに、私たちが逃れようのないシステムにおける加担の中で、わざわざエルサレム賞を受け取ることの加担のみを問題にし、それをもってスピーチの内容を全面的に棄却するような理屈に、僕は同意できません。それはダブル・スタンダードであるか、そうではないならば、袋小路=抵抗の終了でしかありえません。
※追記:エルサレム賞受賞という積極的加担と、システムにおける不可避の消極的加担は違う、と考える可能性はあります。これについては、また別に議論したいと思います。
村上が、受賞式出席について、日本の自分への受賞拒否への呼びかけへの対抗から(論理的にはそうなる)正当化していること、パレスチナ人からどう映るかという認識が存在しないことは、興味深い。これは、萱野稔人の最近の主張に似ている。萱野はこのところ、外国人労働者の流入への反対やネット右翼容認論を展開しているが、その際には、従来の左派との違いの強調や、左派への説得はされながらも、萱野の言説によって被害を被ることになる外国人労働者や在日朝鮮人の人権は、はじめから考慮の対象に入っていない。これは、佐藤優が排撃する在日朝鮮人その他の対象の人権を考えず、佐藤優を自分たちの味方として宣伝しようとするリベラル・左派とも同じ構図である。
萱野氏については知らないので割愛しますが、佐藤優についてはいくつか見ましたから、そちらに即して述べます。
佐藤優については、明確にその排外主義を語っているのです。ですから、佐藤優については、その発言を取り上げて、一つ一つ批判されるべきでしょう。しかし、村上は、それが綺麗事に過ぎないと言われようとも、綺麗事を語ってはいるのです。佐藤優が語っていることは綺麗事でさえありませんが、村上が語っていることは、少なくとも、綺麗事です。その意味で、全然違います。実際、村上春樹の批判者の人たちは、明白に抑圧者の側に立つような内容を、ただの一つも具体的に指摘してはいません。
村上春樹を批判してはならない、とは言いません。このことは何度も明言しています。ただし、村上を批判するとしても、明示的に排外主義を語っている佐藤優とは異なる批判になるはずです。いくつか散見される批判も、文脈を補った上での批判ですが、僕の見る限り、そのように補わねばならない必然性を感じるものはありません。ゆえに、「佐藤優を自分たちの味方として宣伝しようとするリベラル・左派とも同じ構図である」というのは、勢いまかせの断言以上のものではありません。少なくとも、今のところは。
だいたい、仮に、村上のスピーチがイスラエルのガザ侵攻への全面的な批判であると解釈するとしても(私にはそうは全然思えないのだが)、その程度の批判は、シオニスト左派も国内でいくらでも行なっていることである。イスラエルの国民からすれば、海外の知識人が、そうした見解を持っていることなど折込済みだろう。……
この部分についても、同様の問題があります。シオニスト左派は、武力行使に懸念を表明しながら、アラブ系住民に対する排外主義をまったく隠そうとしません。佐藤優のように。では、村上は、そういう排外主義をハッキリと口にしたのでしょうか?僕はそのような文言を、村上のスピーチの中に見つけることはできません。ゆえに、シオニスト左派と村上春樹の同一視は飛躍していると、やはり言わざるをえません。
村上を佐藤優やシオニスト左派と同一視するのであれば、もっと丁寧な論証が必要なことは明らかだと思われます。
整理します。人がその基盤としている構造と矛盾したことを述べてはならないといってしまうならば、抵抗は不可能になります。だから、僕はそのようなことを問題にしません。それとは別に、人が、あるところで述べていることと別のところで述べていることが矛盾することは、認めるわけにはいかないでしょう。それは十分に回避可能なことなのですから。
プロパガンダの前提を共有しながらプロパガンダを批判すること
もう一つ、少し先に書かれた簡単な記事について。>http://watashinim.exblog.jp/9353681/
こんなものは、受賞するか辞退するかのどちらかであって(受賞式でイスラエル批判を行なった、ソンタグを持ち上げる人が多いのも奇妙である。結局は貰ってるんだから)、賞を貰った上でどれだけ批判しようとも、それはイスラエルの「寛容さ」を示す材料にしか使われないだろう。
イスラエルの「寛容さ」を示す材料に使われる、という意味について。仮に、「村上はエルサレム賞を受賞した。それは、村上のスピーチの内容によらず、イスラエルに対する全面的な支持を意味するものである」と語る人がいたならば、「君はバカですね」といっておけばよいと思いますが。そのように言ってまわる人がいたとしたら、滑稽なだけでしょう。ただ、その都度「バカですね」と明示的に指摘しておくのは大事だとは思います。
この「寛容さ」についてのプロパガンダは、どのようにして完成するのでしょうか。それは、村上のスピーチが単発に終り、それを批判するにせよ擁護するにせよ、時間がたったら過去の話として流されるとき、ただ、「2009年受賞者 村上春樹」という記録のみが残るように風化していくときに、完成するのです。しかし、ソンタグやミラーの批判は、その批判があったことを繰り返し語りなおしている限り、一つの資産として利用可能なものです*1。村上についても同様です。つまり、基本的には、私たち次第だ、ということです。
プロパガンダに対抗するためには、プロパガンダの前提に同意しないことが重要です。村上はイスラエルの政策に同意したでしょうか?言うまでもなく同意していません。イスラエルは寛容な社会でしょうか?まぁ、これはどっちでもいいです。いずれにせよ、隣人を殺戮し続けている社会は、寛容であるかどうかを考える以前の問題を抱えた社会です。このようにハッキリ言っていけばいい。
逆に、あらかじめ「賞を貰った上でどれだけ批判しようとも、それはイスラエルの「寛容さ」を示す材料にしか使われない」と断定する態度はどうでしょうか。その批判的なトーンとは裏腹に、プロパガンダが認めさせようとしている前提を共有してしまっているのです。これこそが、このプロパガンダの完成を手助けしていると言えないでしょうか?なんでわざわざ自分でそんなことをしようとするのか、僕は不思議でなりません。
再確認しておくべきこと
いずれにせよ、村上を擁護するのか批判するのかは、ある意味では、どうでもいい問題です。問題解決とは、問題が解決されることであり、誰かが解決されるべき問題に言及することではないのですから。そして、それは村上氏の仕事ではなく、運動家の仕事でもなく、僕の仕事でもなく、それらすべての人々を含む「みんなの」仕事です。つまり、目標はまだ先にあり、その仕事に対する責任は、すべての人にある。シンプルな話です。
村上氏を擁護するにせよ批判するにせよ賛美するにせよ、それらの話は、私たちがこれから何をするのか、という問題に還っていくのでなければ、何の意味もありません。村上氏を擁護したり賞賛したりするのであれば、自らもそれに続かなければなりません。自らも、卵の側に立って、なにができるかを考えるのでなければなりません。村上氏を批判するのであれば、別に批判して構いませんが、村上氏のようではないどんなことが自分にできるのか、それを考えなければなりません。結局、そこは同じなのです。
だから、何度でも強調しておきますが、村上に対してどういう態度を取るのでもいいけど、で、私は、あなたは、どうするのか、その問いを置き去りにしないことが重要です。