モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

ビラ関連・一応の後始末

他者の歓待おおやにき
おおや氏が「保守を自任している人物に向けて「生活保守主義的」と言うことが批判として機能するのかどうか」など洒落めかして書いているわけだが、僕は「生活保守主義的浅ましさ」と書いたのであり*1、相変わらず、好きに切り刻んで勝手な引用・解釈をなさる方だ。*2
以下を書いてみて改めて地裁判決を思い起こすと、ビラ投函と言えども好き勝手よいわけではないことも踏まえつつ、しかし、先に方法について考えてもいいんじゃないの&拒否する方も言うべきことがあるはずでしょ、政治的主張にまったく出会わない世の中ってそもそも民主主義の社会としてアレじゃないですか、という様々な要素を適切に踏まえた良い判決だったように、やはり思う。

◇ 政治的主張だとしても手段は抑制的であるべき

それはさておき、元より「ドアポストは遠慮して集合ポストにしてくれ」と言われたならばそれは応じるべきだ、と僕は述べている。そして、黒猫房主さんが言うような「政治的主張の侵襲性を肯定するのならば、無条件に政治ビラのポスティングは肯定されてよいと言ってもよいのではないのか?」という意見には、ハッキリ「ノー」と答える。僕が言う意味での政治的主張の侵襲性というのは、「聞きたくないことを聞かされる」という意味においてであり、それをもたらす媒介が暴力的であってよいという意味とは違う。足を踏んでいる相手から「ヘッドフォンを取り上げる」ことは正当だと思うが、しかし、叩き落とすとか、いきなり横面を張るとか、取り上げたヘッドフォンを破壊するとか、そのようであるべきではない。その意味で、おおや氏の「http://alicia.zive.net/weblog/t-ohya/archives/000268.html」での非難は、ほとんどが黒猫氏へ向けたものであって僕には届いていないことを追記しておく。おおや氏が言うように/に言われるまでもなく、我々は現に近代国家の中に生きていて、その秩序を作り変えることによって乗り越えようと、ひとまずは考えているのであるから。
次に、ドアポストと集合ポストの区別について。「個別ドア付近への立ち入りが「平穏」だというのはこのご時世に脳天気すぎやしないか」となどと言われるわけだが、そりゃ自分の家が問題になっていたならば、自分の意見として「ドアポストはやめてくれ」とは言うだろう。僕ならば、そう言う。しかし、高裁判決も、直接拒否を表明したとかいう住民も、「集合ポストなら問題なし」と述べてはいない。ビラ撒きの人々は危害を加える意図はなかったというだけでなく、そもそも危害を加えるかもとの危険を感じたと言われてさえいないのである。単に、それを論点として重視することが、現時点ではこじつけだろう、ということだ。仮に判決か住民がそれを主張するのであれば、その点は認めるべきではないかと思うし既に述べているのだが、なんで今頃こんなことを言われるのであろうか。

◇ 捏造される神々の争い

その上で、次のようには述べる。(相手が)暴力に訴えることが正当化されるというよりも、(私たちが)もはや暴力に訴えられても抗弁のしようがない状況というのはある。「足を踏む人間が、そのままでヘッドフォンで音楽を聞き続けている」ような状況が、完全に構造化されて日常化されているような場合である。その意味で、障害者バス闘争は断固擁護するし、仮に米軍に家族を殺されたイラク人が日本で無差別テロを敢行したとして、僕らにはそれを非難する資格はない、とは言う。しかし、黒猫房主さんが言うような意味での闘争的暴力が肯定されることを僕は認めていない。ただ僕らが実現している制度的現実において非難できないと言うことは時々言うと思う。今回の反戦ビラ撒きについては、どんなに怒り、共感しているとしても、ビラを撒いていた彼ら自身は日本人であって暴力的に抑圧されているわけではとりあえずないのだから、ビラ撒きにおいてできるだけ暴力的でない手段を選ぶべしということは当然だと僕は考える。
しかし、この前半部分、「(相手が)暴力に訴えることが正当化されるというよりも、(私たちが)もはや暴力に訴えられても抗弁のしようがない状況というのはある」で既におおや氏は気に入らないだろう。関連しておおや氏は次のように述べているので、引用した上で答えておく。

「ヘッドフォンをはずして「足を踏むな」と言うのは正当だ」(mojimoji氏)、だから相手のヘッドフォンを奪いましたという話なのだが、その相手が足を踏んでいるというのは誰がいつ確認したんですか、そう思っているのは自分だけじゃないんですか、注意するためにヘッドフォンを外したという目的は誰によっていつ確認されたんですかという話である。
変わっていないというのはこういう点で、つまり当人の主観的認識としてどうかという問題と、それを他の人が見てどう思うか、当人の主観的意図が伝わるかというようなことが区別[されていない|できない]のである(A)。もう一つ、自分が使った手段は相手も使ってくるだろうということを予期[していない|できない]のも不思議な点(B)であって、いいですか、世の中には「同性愛者が一つ家に暮して何をしているかということを想像するだけでもおぞましく、私の心の平穏が大きく害されるので、彼らの存在は私の基本的人権を侵害しています」とか真顔で主張する連中というのが本当にいるんですよ?足を踏まれたら怒りにまかせて胸ぐらを掴むくらいのことはあるかもしれないし、それは抵抗権として肯定されるなどと言ったら彼らが嬉しそうに何をすると思ってるんですか? で、一人一殺で戦うとどちらが残るんですか?
(引用中、(A)(B)はモジモジがつけた。)


先に(B)について。これは、端的に僕への批判にはなっていない。しかし、そもそも、被抑圧者側が暴力を使って初めて抑圧側が暴力を使い始める、なんてケースって、一体どこにあるんだろう?パレスチナ?障害者のバス闘争?他のどのケースを見ても、そんな事例見出し得ないのだけども。むしろ、今回のケースのように、ビラ投函程度の「暴力」?に対して、逮捕&75日拘留などという「暴力」!を対抗させているのだから、むしろ権力側こそが暴力をエスカレートさせてることを非難すべきじゃないのかねぇ。「自分が使った手段は相手も使ってくるだろう」とは、むしろ警察にこそ言うべきだろう。あるいは、誰に向かって言うかという点に、彼自身の隠された二重基準が露になっているのだろう、ということであろうが。その意味で、野原さんが注で書かれたことには、僕も同意する。


次に(A)について。主観的認識は好き勝手作ってよいものではなく、当然我々は知りうる限りの材料を使って科学的に討論する。たとえば、おおや氏はかつて次のように(まったく同じことを)述べた。

もちろんmojimoji氏は生存基盤を保障されていない人々の正義の主張を正当なものと考え、それにコミットすべきだと主張する。しかし問題は、例えばイラク戦争期のイラク人たちがおそらくそのような主張を行ない、mojimoji氏がそれに対する共感を感じるであろう一方で、その状態をまさに生じさせているアメリカ人たちも同様に「我々の生存基盤が保障されていないのだ」として自らの正義を主張していたという点にある。すなわち正義に関する「神々の争い」という状況が生じ、そしてそれを批判し得る視点(の一つ)はまさにmojimoji氏自身が壊してしまっている。いったいどうするつもりなのか。
http://alicia.zive.net/weblog/t-ohya/archives/000165.html

これについて、僕はかつて、当該エントリに半年遅れてこう答えた。

どうするもこうするも、アメリカ人に向かって「お前たちは間違っているよ」と言う他にないでしょう。さほど苦労しなくても手にいれられる範囲で得られる知識を踏まえて、今現実に行われていることについての報道のいくつかを見た上で、「イラク人の主張が正しくて、アメリカ人の主張は間違っている」と言えない理由があるとは思えません。言えない、というのであれば、それはいくらなんでも物を知らなさ過ぎるから、今回の戦争について報道されていることを一通り復習してみることをオススメします。これはあくまでも情緒の問題ではなく、知性と知るための努力を誠実に行うかどうかの問題。

言えるがそれをアメリカ人に納得させることが不可能だ、と言うなら、それが不可能であるならば私たちが普遍的な正義に到達することは不可能だと断言しておきましょう。天動説と地動説を信じている者同士でも、共通の正義の原理を持つことはできる。しかし、共通の天文学理論を持つことはできないでしょう。同様に、規範の適用に関わる重大な事実について相反する信念を持っている者同士の間でも、共通の天文学理論を持つことは可能だろうけども、共通の正義の原理を見出すことはできないでしょう。

科学者の対話というのは、根拠と論理をもって相手を説得することによって成り立っている。ある仮説Aを信ずる科学者とその反対仮説¬Aを信ずる科学者がいるとき、彼らはそれぞれの信ずる仮説を支持する根拠(実験データ等々)を提示し、ぶつけあう。イラク人とアメリカ人の主張においても、同様にするしかない。その上で問う。知られている範囲でのイラクに関する調査や報道の一切を、覆すだけの事実をアメリカ人は提示することができるのか?劣化ウラン弾についての報道と検証の数々を見せられてなお、それに同意しないといえるだけの反証を彼らは示すことができるのか。そこが問題。

大事なことは、彼らに反証する気がなければならない、ということです。意固地になって、誰がなんといおうとアメリカは被害者であるとただ繰り返すだけの人間であるならばどうにもならない。しかし、そんなのは科学の世界にもいるのであって(UFO学者だのなんだの)、しかし、それでも確からしい科学的知識が論争を経て生き残ってきているのも否定しがたい事実なわけです。

さらに、全身性障害者の話を思い起こしましょう。全身性の脳性マヒ者が「24時間介護がなければ遠からず死ぬ」という事実は、それほど認識困難な事実ではないでしょう。ゆえに、「24時間介護がなければ死ぬ」とする主張と「そんなものなくても死にはしない」とする主張の対立は「神々の争い」ではありません。役人を刺殺した老人についても同様です。その老人がどのような生活をしていたかについては、引き合いに出された時点で詳細な設定はなかったから知らない。もちろん、いささか判断の微妙なケースもあるでしょうが、身寄りもなく、いくつか身体に故障を抱えた、現金収入も特筆すべき蓄えも持たない独居老人であったならば、とりあえず放置しておいても生きていけそうだとは思わないわけで。

あらゆるレベルで行われている実証のための努力を差し置いて、安易に「神々の争い」などと言うべきではありません。神々の争いとは、「24時間介護保障がなければ死ぬ」「ああどうぞ死んでください」という類の対立のことを言うのです。そのような場合には、私たちは暴力によってしかその対立を解消できないでしょう。ただし、幸運なことに、そのようなことを言う人は、そう多くはないわけで、僕らとすればそこに賭けることができるわけです。
再開と宿題その1 - モジモジ君の日記。みたいな。

まぁ、これに対するおおや氏の返答は大体予想がつく。「それが事実だとしても、それは正当な手続を通じてしか明らかにしえない」。まず指摘しておくべきことは、彼はこう述べておくことによって、事実認定に関する論争のどちらにも(表面的には)加担することなく、(表面的には)超越的な立場を保持できるということである。しかし、「リスクを背負う人とそれを後ろから撃つ人」で既に述べたことがあるが、彼の表向き超越的な立場は、どう取り繕おうとも、その問題を議論させたくない人たち(=事実において好き勝手やっている人たち)にとって最も都合がよいものとして機能しているのである。彼が手続的正義に拘る一方で、自分自身の問題への態度を明らかにしないのは、自身が述べているように「禁欲している」わけではまったくない。その方が都合がよいからである。*3
その上で述べる。「正当な手続を通じてしか明らかにしえない」と彼が述べるとき、それが意味することは何か。たとえば、アメリカによるイラク侵略について、国連における手続きにおける不備をではなく、そこで行われている虐殺という内実において、おおや氏は断じて批判しないのか、するべきでないのかどうか。もちろん、一部ジャーナリストたちの伝えるところの「イラクの惨状」の情報*4に基づいて、「イラク戦争は虐殺である」と主張することは、おおや氏が言うように傲慢さでしかありえないということである。あるいは、おおや氏は、たとえばかつて問題にした障害者バス闘争において、車椅子ならばバスにも乗れないという状況があったことを承知した上で、さらにバスへの乗車要求が長年はねつけられてきたという歴史をまずは聞き、これらmojimojiの言うことがとりあえず真実でありかつ「少なくとも他に特別の事情がないならば」という留保をつけたとしても、それでも彼ら車椅子利用者が基本的権利を剥奪されてきたと主張することは傲慢でしかないと述べるのである。一応付け加えておくが、彼らのバス闘争が正当だったかどうか、ではない。彼らの権利が剥奪されてきたのかどうか、という点において。こんなことは「得られた情報に重大な嘘が混じっていなければ」という留保つきではあれ、大仰な正当手続きなるものを用意しなくても判断できるし、している。それさえも「神々の争い」としか言えないということである。公共的空間においてなしえる議論は、事実認定をまったく扱うことができないと述べているに等しい。もちろん、そういうものも残ってはしまうだろう。しかし、彼は例外を認めていないのであるから、見れば分かる、という程度のことでさえ認めない。
よって、そうした見れば分かるという程度のことさえ認めない人々の言い草を、とりあえず前提にしたところで秩序を構想しようとする。だからあんなおかしな話になるのだ。そもそも、科学的に妥当な見解にたどり着くための手続きとは、そもそも「自説に都合のよい情報だけを取捨選択して用いる恣意性を戒めること」であろう。これを戒めないところでは、科学的議論は不可能である。正義に関する議論も同様である。おおや氏が手続的正義をどれほど主張しようとも、それが妥当であるためには、その正当な手続きとやらの性質について述べねばならない。それは「自説に都合のよい情報だけを取捨選択して用いる恣意性を戒めること」をいかに実現するかに帰着するのであり、それが裁判所の中で可能ならば、外でも可能ではない理由もない。むしろ、裁判所の外で可能であるからこそ、それによって裁判所の中の議論も制約を受けることにより、裁判所の中での議論から恣意性を排除する可能性も開けるのである。おおや氏の考えるところの手続的正義は、公共的空間の議論全体を手続きとして考えざるをえないというところにいずれ帰着するだろう。これはつまり、手続的正義という言葉で何を言ったことにもなっていない、ということでもある。結局のところやらなければならないのは、「同性愛者の存在が許しがたい」という人間に対して、オマエは間違っていると正面切って相手にするかどうか、という問題にしかならないのである。


ついでに言えば、「ああどうぞ死んでください」と本気で述べる人たちとの間では、直接的な暴力によってしか問題は解決しないような気がするな。しかし、その人たちの方こそ、「自分が使った手段は相手も使ってくるだろう」とどれほど想像しているのやら。笑うべきは「一人一殺」などという話であり、おおや氏は彼らが本気で「同性愛者の抹殺のために自らも一殺に貢献して死んでも本望だ」と考えていると思っているのでしょうかね。*5いや、百歩譲って、そこまで電波な人々がいたとして、これは暴力闘争しかないでしょう。嬉しくはないが、その時には、同性愛者を守るための戦いに僕も手を貸すことになるだろうね。そんなところで秩序など作れるわけがない。


追記:読みやすくするために、若干の加筆・修正を行った。もちろん、論旨は変えていない。(2005/12/26)

*1:生活主義的「偏見」とした方が正確かな、と書き直しを一度検討したが、瑣末な話なのでほっておいたところでもある。

*2:あるいは、「浅ましいと思われても構わない」から同じだとおっしゃるだろうか。それならば、およそ<議論とは第三者への承認要求である>と述べた人とも思えない、とあらかじめ返しておこう。

*3:今回は「私に価値観がないわけではないし、「価値観は排除して書きます」と宣言していることもないはずである」などと述べているしね。前回は、「あえて排除して書くのが技である」みたいなことを書いていたわけだが。

*4:たとえば、で提供されているような。

*5:この点、死ぬのは奴らださんの秀逸なコピーは実に笑える。>「愛国をきどる若者よ自衛隊に入隊して花と散れって。靖国は俺が参拝してやるから。躊躇するな。」@反米嫌日戦線「狼」(反共有理)