モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

広域処理に賛成することは科学的態度と言えるか?

 実は、震災がれき問題に関わっている間、「震災がれきを燃やすことは危険ですか?」という質問に対して、「危険です」と答えたことは一度もない。この直截な質問に対しては、原則として「わからない」と答えてきた。それでは、僕は何を問題にしてきたのか。安全性と必要性を問題にしてきたとは言えるが、正確に言えば、「政府の言う『安全です』『必要です』との主張の根拠には合理的な疑いの余地がある」ということだ。そして、政府が示している論理と証拠に対して、一つずつ丁寧に疑問を投げかけていった。環境省はおよそ何一つ答えなかったし、答える意志もなかった。

 言うまでもないが、「危険です」と答えることと「(安全か危険か、危険だとしてどの程度危険か)わからない」と答えることの間には大きな違いがある。もちろん、「安全です」と答えることの間にも大きな違いがある。僕の立場は、実際に何が起こるかはわからないし、この点で確信的に言えることはない、というものだ。そして、「政府の言う『安全です』『必要です』との主張の根拠には合理的な疑いの余地がある」という主張をしてきたが、この点についてさえ、自分の主張に確信を持ってはいない。しかし、確実に言えることがある。「行政が『安全です』『必要です』と主張するに至る判断過程は不合理であった」、ということだ。


 その根拠の一つは「災害廃棄物安全評価検討会議の議事録不作成」問題である。その経過は次の記事に詳しい。

 この議事録不作成問題の含意するところは重要である。第一に、この施策に責任ある人々は、その判断過程を積極的に隠蔽した。第二に、市民がその判断過程に関心を寄せていることを知って、改めて隠蔽の度合いを強めた。第三に、最終的に、議事録の重要部分について開示しなかった。第四に、検討に関与した学者の内、議事録を開示すべきと主張した人が一人もいなかった。この件だけでも到底容認できないスキャンダラスなデタラメさである。


 仮に、震災がれきの広域処理は安全であり、必要でもあったと、想定しよう。そうであるならば、震災がれきの広域処理に賛成することは合理的であろうか。否である。なぜなら、議事録不作成問題を通して見た震災がれき問題とは、「行政の判断過程が著しく不合理な場合でも、その政策を容認するべきか」という問題だからである。

 次のように述べる人はいるだろう。すなわち、「結論が正しいならば、判断過程が不合理であってもよい」。より詳しく述べるならば、次のようになるだろう。「自分は合理的な判断過程で正しい結論を導いた。行政は不合理な判断過程ではあるが、正しい結論にたどり着いたらしい。そうであるならば、行政の施策を容認することは、私にとっては何ら問題のあることではない」。この考え方は容認できるだろうか。否である。容認できない。なぜなら、この場合、行政は説明責任を果たすことが原理的に不可能であるからだ。こうした主張に同意する人は、行政が(結果だけでなく)過程について責任を負うべきことの意味も重要性もまったく理解していない。


 なぜ、行政が(結果だけでなく)過程についても責任を負うべきなのだろうか。それは、行政に結果においての過ちを回避させるための仕組みに対して、不可欠の一要素をなすからである。

 「『判断の正しさ』について」で述べたように、選択可能な理論を差別なく検討し、参照可能な証拠を差別なく参照した上でなされる、最善の合理的な説明に基づく施策であってもまちがうことはある。それによって被害も発生しうるだろう。そうした条件の下で悪い事態を避けるために取りうる方法の一つは、結果責任を厳しく問うことである。しかし、この場合、政策担当者は必ず次のように考える。すなわち、「悪い結果を避けようとしても確実ではないが、『悪い結果が出てもそれを追及されないようにすること』を併用すれば、より確実に結果責任を回避できる」。これが結果責任を厳しく問うことの弊害である。

 ここで出てくるのは、悪い事態を避けるためのもう一つの方法である。それは判断過程を開示する責任を厳しく問うことである。このことのメリットは明らかである。第一に、これによって意図的に不合理な判断に従うことは最大限に排除される。第二に、公共的な討論に付すことによって、判断過程の合理性を一層高めることができる。そして、この方法は第一の方法と矛盾せず、むしろ、その機能を補完するだろう。ゆえに、行政の施策が科学的な妥当性を持つような状況を望ましいと考えるならば、判断過程の開示責任を求めない理由はどこにもありえない。この問題を不問にする理由もありえない。


 広域処理の賛成派の中で、先の議事録不作成問題に言及する人はほとんどいない。きっと彼らは「そんなこと重要じゃない」と言うだろう。だとすれば、「広域処理賛成派は全体として広域処理の賛成派は判断過程の重要性を理解していない」と言えるし、この事実は「広域処理賛成派の人たちがそもそも科学的姿勢を持っているのか」を疑うに足る十分な理由になる。判断過程こそが、科学的思考の生命線なのだから。

※ なお、今回は、議論の実質には踏み込んでいない。たとえば、バグフィルター神話などの主張の非科学性については何も述べていない。機会があれば別稿ででも述べたい。また、広域処理の必要性については、既に、「不要なものを水増しして広域処理施策強行に持ち込んだ」ことはほぼ明らかにされてきている。広域処理賛成派の知的誠実さが問われるところだろう。

「判断の正しさ」について

 「判断を誤った」ことを制裁の対象にしていくと、頑として誤りを認めない、誤ったことを隠す、そういう体質にどんどんなっていくと思っています。つまり、判断の結果に注目することは、問題を大きくしてしまう。そうだとするならば、代わりに、どのように考えればよいのでしょうか。


 そもそも、判断とは、判断の「正しさ」とは何でしょうか。
 ニュートンはまちがってましたけど、それでも、彼の理論が土台となってアインシュタインやその後の理論が生まれてきたとは言えると思います。間違っても「正しいと信じられること」を言葉に、形にすること、それが私たちの世界に対する認識を進歩させてきました。逆に、あてずっぽうで結論だけ言い当てることができたとしても、そのことに何か意味があるでしょうか。少なくとも、次なる判断に生かしうる知見を何ももたらしていないという意味で、まぐれ当たりの正解には何の価値もありません。

 正しいか間違いかで言うなら、体系としての信念は、必ずどこかがまちがっています。その中の個別の命題についても、やはり、まちがっていることはいくらでもあります。まちがいたくないなら、何も言わなければいい。これだけが、「まちがったことを言わないため」の唯一の方法です。……ただし、これとて「何も言わないことがそもそも間違っている」としか言いようのない状況での誤り回避の戦略には、ならないのです。だとすれば、私たちは、不可避に間違う可能性の前に立たされていることを認めなければなりません。


 この認識を前提に、私たちはどこまでを個人として責任を負うのでしょうか。そもそも、私たちが到達しうる最善の正しさとは何か。言うまでもなく、絶対的な正しさではありえません。そうではなく、判断しなければならない時点において、実際に思いつけていた様々な仮説の中から、証拠に照らして最善と思える仮説を選ぶ、そういう種類の正しさでしかありえません。私たちが最善の努力で果たしうる責任とは、そのようなものではないでしょうか。

 そうであるならば、検討可能な様々な仮説を差別なく吟味したかどうか、利用可能な様々な証拠を差別なく採用したかどうか、判断過程の検証こそが重要なのだと言えるでしょう*1。だから、判断過程のプロセスを明晰に言葉にすること、その際に利用した証拠をできる限り隠さずに明らかにすること、これが先に述べた責任の一部として含まれるでしょう。


 もちろん、結論においてまちがっていたことが判明したなら、判断過程においてもどこかまちがっていたかもしれないと推定することは自然なことですから、結論のまちがいが判明したことをきっかけに検証がなされることも自然なことでしょう。原発事故の調査委員会などは、そのようなものです。

 しかし、ここには二つの問題が残ります。第一に、失敗が判明するまで検証がなされないということです。たとえば、原発事故に関しては、事故が起きたから検証することはもちろん必要ですが、本来であれば、事故が起きる前に未然に防げたことのはずです。2011年3月11日以前に、その検証の機会はなかったのか。有りすぎるほどあった、ということは、少しでもこの問題について調べた人であれば誰もが頷くことだろうと思います。

 そして、第二の問題に移りましょう。これはより深刻な問題です。すなわち、判断過程に関する証拠を積極的に隠蔽・破壊することでそもそもの失敗が判明しないような構造を作り出すこと、これによってより確実に責任が回避できるような構造を作り出してしまうことです。行政は、議事録や審議過程に利用した情報を隠します。警察や検察は証拠や捜査に関する情報を隠します。軍隊(自衛隊)も同様です。できるだけ文書にはせず、文書にしてもできるだけ早期に破棄し、破棄できなくても存在自体を隠し、存在が隠せなくても「紛失した」と嘘を言い、こうしたことは枚挙の暇もないほどです。終戦時の日本政府による組織的な公文書焼却も指摘しておくべきでしょう。

 もっと身も蓋もないやり方もあります。つまり、「私が私の権限でそう決めました」、「私の判断です」、これで済ませてしまう。『あなたがそのように判断したことの根拠は』と聞いても、「お答えできません」と返ってくるか、さもなければ「私の判断です」と繰り返すわけです。最近では橋下や安倍がそういう答弁をしますが、たとえば、裁判所で行われる勾留理由開示公判等もそのようになっています。最近になって初めて現れてきた傾向というわけでもないのです。


 以上のことから、次のように述べたいと思います。私たちは、結論におけるまちがいよりも、判断過程の不合理さをこそ問題にする視点を持つべきでしょう。長期的に見て、結論におけるまちがいを減らすために私たちが関与できるのは、判断過程だけなのですから。そして、判断過程を隠蔽するようなあらゆる方法を、犯罪そのもの以上に強く憎み、決して許さないという態度を採るべきでしょう。この視点の変更なくして、この腐りきった社会を立て直すことなど、到底不可能だろうと、確信しています。

*1:たとえば、2011年3月11日直後に「メルトダウンではない」と予測した人がいましたが、予測が外れたことが問題なのではありません。第一に、その人がそのように判断した根拠が十分に示されていないこと、第二に、別の人が根拠を明示した上で「メルトダウンしている可能性は否定できない」と判断できた事実により、当時の利用可能な証拠に照らしてそのような判断ができたということ、ゆえに、「メルトダウンではない」との結論に至る判断過程の不合理さが強く推認され、ゆえに批判されているのです。そして、第三に、いまに至るも以上の批判に対するまとまった応答はなされていないことが、ある意味ではもっとも深刻な問題なのです。

表現が私たちをつなげることができるのだとしたら

 僕は、常々、できるだけわかりやすく語りたいと考えているし、できるだけおもしろく語りたいとも思う。耳を傾けてほしいからだ。しかし、もちろん、わかりにくくても大事なことに、おもしろくなくても大事なことには耳を傾けてほしいと願っている。

 後者のメッセージはほとんど伝わらない。このメッセージを受け取ることは、多少の面倒くささをもたらすからだろう。気付かないのか気づきたくないのか、とにかく、この部分のメッセージはほとんど届くことがない。


 ユーモアをもって語ることは、確かに、社会を大きく変えることがある。しかし、「ユーモアをもって語られていないことに耳を傾けない態度」、ここだけは頑として変わらなかった、変えることはできなかったのではないか。思い起こしてみてほしい。この社会で語られた本当に大切なことの多くは、本当に本当に痛切な思いで語られていて、聴いているだけでつらく苦しく胸が痛むようなことではなかったか。

 あるいは、こういうことも考えたい。古臭いスローガンの連呼は見苦しいかもしれない。しかし、そのスローガンを連呼する見苦しい人が、どんな人生を歩んできたのか、考えたことが一度でもあるだろうか。大した人生ではないかもしれない。しかし、ある種の理不尽を必死で潜り抜けて生き延びてきて、そうして怒りや悲しみや希望を込めて、その人はそこで古臭いスローガンを連呼する以外の表現を知らなくて、叫んでいる。そんなことがありうると、考えたことがあるだろうか? さまざまな思いを経てその人が獲得した言葉が、そういう「貧しい」言葉でしかなかった、そんなことはいくらでもある。

 表現するなら、工夫はした方がいい。良い工夫も悪い工夫もある。それは端的に技術の問題だ。しかし、工夫のありようによって、耳を傾ける必要があるかないか、聞き手が好きに選んでいいということでは決してない。語り手は知っていて、聞き手は知らない、語る動機があるところに聞く動機はない、だから必然的に工夫するしかない、そういう構造になっている。しかし、語る動機があるところに聞く動機がないとしても、語る責任があるから語っているのではないし、聞く責任がないから聞かなくてよいのでもない。


 まったく同じことが明るくも暗くも表現できるなら、明るい表現の方がいい。そんな風に思っている人があるかもしれない。しかし、僕はこの前提を信じていない。つまり、「まったく同じことがまったく別様に表現できるはずだ」という前提を信じていない。そこにはきっとズレがある。いや、本当にズレがあるのかはわからない。しかし、「そこにはきっとズレがある」と思っていないと気付けないことはきっとある。

 まったく同じことを別様に「明るく」表現したのだとしたら、そこには零れ落ちるものがあるだろう。たとえば、「あまり明るくはないメッセージにも耳を傾けよう」というメッセージは、そこから零れ落ちている。「人々が受け入れやすい形で表現することがほとんどできない」、伝えられるべきことの中には、そんなこともいくらでもあると思う。だから、「明るいメッセージ」ばかり聞いていたら、気づけないことがきっとある。


 私たちが「わかりやすい」「おもしろい」「明るい」表現を追求するとしたら、上記したような事情にもかかわらず、そうするのである。これからも、人々に受け入れられやすい表現を、CM的手法を、マーケティングの知恵を、取り入れて取り入れて工夫に工夫を重ねて、「届け、伝われ」と祈るような気持ちで発信するだろう。しかし、その一方で、そんな工夫など一切していない(たとえば「できない」)人のメッセージに真剣に耳を傾けること、それこそが私たちに求められる倫理だったのではないかと、常に忘れないで考えている必要があるだろう。表現の工夫が、この社会の可能性を閉ざすのではなく開くためには、このことは何度でも強調される必要がある。

 おもしろみのない、ダサい、古臭い、工夫のない、品のないメッセージに、私たちがどれだけ真剣に耳を傾けることができるか。あるいは、耳の痛いメッセージに、どれだけ真剣に耳を傾けることができるか。それが私たちの社会の未来を決めるだろう。表現の工夫は、その余地を広げたり、さまざまな負荷を和らげたりすることはできても、耳を傾けることの倫理をなしですませるわけには、やはり、いかない。

「わかりやすさ」について

 同じ話なら、できるだけわかりやすく話した方がいいと思うし、そのように努力することは大事だと思う。ただ、だからこそ、聞き手である人々は、わかりやすさの危険性について、もっと具体的に考えておいた方がよいと思う。


 人は、気づいていないことには、気づいていない。そのことに気づくことは、決してわかりやすいことではない。ちょっとした違和感を感じて、少し足踏みをするように考えて、ジワジワとの気づいていなかった「何か」の姿が見えてくることもあれば、あるヒラメキとともに「何か」が見えてくることもある。いずれにせよ、「気づき」と「わかりやすさ」は別のものだ。

 だから、次のことに注意する必要がある。もし、あなたが「わかりやすさ」を基準にさまざまな知識や考え方を求めているなら、あなたの気づいていないことに気づかせる「何か」に出会う可能性は、その分だけ、低くなる。


 この「何か」は、まだ気づいていない盲点にある、というだけではない。しばしば、気づくことによって不愉快な気持ちになる「何か」でもある。たとえば、私たちは知らず知らずのうちに誰かの足を踏んでいることがある。足を踏んでいることに気づくことは、「踏んでしまって痛い思いをさせて申し訳ない」というバツの悪さに気づくことでもある。

 足を踏む程度ならよい。指摘されれば簡単にわかることだから。問題なのは、「足を踏んでいる」その相手がどこか遠くにいるときだ。たとえば、私たちの政府が決定したことが、遠く地球の裏側に暮らす誰かの頭上に爆弾の雨を降らせることだったり、そうしたことへの支持や協力だったりすることは、(少なくとも日本という国に住んでいる場合には)珍しいことではない。私たちが足を踏んでいる相手は、地球の裏側に暮らす人であったり、未来や過去に生きる人であったりする。足踏みをするように少し丁寧に考えるという手順を踏まないと、自分とその人とのつながりにさえ思いが至らないことはいくらでもある。


 もう一つ問題がある。私たちが「足を踏んでいる」程度なら些細なことでもあり、些細なことだからこそ、率直に謝ることも許すことも、比較的簡単だろう。しかし、私たちのしでかしていることが大きく重たいことであればあるほど、それを認めることは愉快な話ではないし、後回しにしたり、酷い場合には気づかないフリをしたりさえする。

 つまり、わかりやすい話とは「私たちが気づきたくない何かには触れない話でもある」ということだ。一言で言えば、わかりやすさは、私たちの「自己欺瞞」を壊さないように配慮された話でもありうる。


 実際、こうした自己欺瞞をわかりやすく暴き立てたときには、「わかりやすい」と褒めてくれる人と同じかそれ以上にたくさんの人たちが非難や罵声を浴びせてくるものだ。

 別に、非難や罵声が、正しく自己欺瞞をついていることの証拠になるとは言わない。しかし、「わかりやすい」と言われるとき、一体何がどのように「わかりやすく」なっているのか、大抵の場合、それはそれほどわかりやすくはない。何かをきちんとわかるためには、足踏みするように自分で考えることをしないで済ませるわけにはいかない。最低限、そのことをわかっておく必要があるのではなかろうか。

7月20日だから書いておきたいこと

 占領下パレスチナを題材にしたドキュメンタリー映画「プロミス」にて。映画の中で、イスラエルパレスチナの両方の少年たちが、一日一緒にサッカーをしたりして仲良く交流する。その後で感想を聴くシーンで。イスラエルの少年が交流を通じての和解の可能性を語っていたのに対して、パレスチナの少年は別の感想を抱く。「仲良くしたい。でも、仲良くしちゃいけない気がする」、文言は正確ではないが、パレスチナの少年はそのようなことを言った。


 当時、「イスラエルの少年は寛容だけど、パレスチナの少年の方がよくないね」と感想を言った人もあって驚いたけれど、もちろん、これはそんな話ではない。パレスチナイスラエルの間を隔てる検問所。分離壁イスラエルによってほとんど一方的に振るわれる暴力の数々*1。それらの非対称な関係をどちら側から見ているのか。それが少年たちの発する言葉の違いに現れているのだろう。問題は仲良くするかどうかではない。二つのコミュニティの間にある不正義、つまり、「イスラエルパレスチナを占領し、基本的人権を侵害し続けていること」、これを取り除くことができるかどうかなのだ。


 中には「そんなこと言わずに仲良くすることが、いずれ、不正義を取り除くことに役に立つこともあるだろう」と言う人があるかもしれない。そうかもしれない。しかし、考えてみてほしい。どれほど長く親しく仲良くしていても、一度意見の違いが露わになると、「そんなにこの国が嫌なら、自分の国に帰れ」と言われる。そんな出来事は掃いて捨てるほどある。仲良くすることは、不正義を取り除くどころか、隠蔽して温存し、むしろ延命させることに手を貸すことだってある。


 だから、もっと具体的に考える必要がある。仲良くするとして、「どのように仲良くすればよいのか」。仲良くすることが、いずれ、不正義を取り除くことに役に立つことがあるとすれば、それはどのようにしてだろうか。おそらく、私たちの間にある断絶について語ること、時にぶつかりあうことも含めて、あまり居心地のよくないコミュニケーションを続けること、「客観的な不正義の構造がある限り、仲良くなんてできない」、このことから目を反らさずに共通の話題にし続けるようなコミュニケーションの中にこそ、可能性があるのだろう。


 このように書くと「それって、そもそも仲良くしていると言えるような状態?」と疑問に思うかもしれない。僕もそう思う。しかし、あなたが実際に「仲良く」している人たちとの関係性を思い起こしてみればよいと思う。お互いの関係を損なうかもしれないようなクリティカルなことを話題にできること、裏返して言えば、そのようなクリティカルな話題を抑圧しないでいること、これこそが本当の意味で私たちの関係が「仲良く」あるのかどうかの試金石だろう。そして、関係性の中にある矛盾が大きければ大きいほど、「仲良く」あることは「とても仲が良いとは感じられないような緊張感に満ちた関係」に行き着く。むしろ、意味の判然としない「仲の良さ」よりも、二人の間にある問題に向き合う真摯さや誠実さといった観点で見た方が分かりやすいかもしれない。「仲良くする上で、そのような真摯さや誠実さはいらない」と真顔で言える人は少ないだろう。


 「イスラエルパレスチナを占領し、基本的人権を侵害し続けていること」、この不正義に向き合わない限り、パレスチナの少年とイスラエルの少年が仲良くすることなどできない。でも、そのことに気づいたきっかけは「仲良く」過ごしたその一日だった。ここには可能性がある。不可能性にくるまれながら、可能性が胚胎している。仲良くすることの意味は両義的だ。今日は、大阪で、反レイシズムを掲げて「仲良くしようぜパレード」が行われる。


 仲良くすることが両義的であるなら、仲良くしないことも両義的だ。「仲良くしようぜパレード」のコンセプトに対して重大な異議を提起している通称「反日デモ」が京都で行われる。二つのイベントが同じ日に行われることは意義深いことだと思う。なぜなら、不可能性を露わにすることは、可能性につながっているからだ。そして、それぞれのイベントの中で「仲良く」した上で、「仲良く」では乗り越えられない何かについて多くの人が関心を寄せてくれればいいなと思う。


 このことがそれぞれの腑に落ちるまでにはたくさんの考える時間が必要だろう。それでも、後でふりかえったときにこの日があるきっかけの一つだったのではないかと思い出されるような、今日がそのような日になることを祈っている。


※ 本題とははずれるが。今日という日にパレスチナのことを話題にしながら、目下進められているガザでの虐殺に触れないのはあまりに搾取的だろう。取ってつけたようで申し訳ないが、一言だけ触れておきたい。今回の攻撃にはあらゆる意味で正当性がなく、攻撃は即時停止されるべきだ。世界各国の政府は即時攻撃停止を要求するべきだ。
 あなたがイスラエルイスラエルの人々の友人であるならば、だからこそ、即時攻撃停止するようの助言するべきだ。なぜなら、この虐殺はパレスチナの人々だけでなく、イスラエルの人々の未来をこそ破壊する蛮行であるからだ。他者を殲滅することの先に未来を描くことはできない。このことは何年か前にも書いた。併せて読んでほしい。>「本気でイスラエルがかわいそうだと思うなら」

*1:マスメディアは未だに「暴力の応酬」と表現するが、その表現にカケラも同意しない。