モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

「判断の正しさ」について

 「判断を誤った」ことを制裁の対象にしていくと、頑として誤りを認めない、誤ったことを隠す、そういう体質にどんどんなっていくと思っています。つまり、判断の結果に注目することは、問題を大きくしてしまう。そうだとするならば、代わりに、どのように考えればよいのでしょうか。


 そもそも、判断とは、判断の「正しさ」とは何でしょうか。
 ニュートンはまちがってましたけど、それでも、彼の理論が土台となってアインシュタインやその後の理論が生まれてきたとは言えると思います。間違っても「正しいと信じられること」を言葉に、形にすること、それが私たちの世界に対する認識を進歩させてきました。逆に、あてずっぽうで結論だけ言い当てることができたとしても、そのことに何か意味があるでしょうか。少なくとも、次なる判断に生かしうる知見を何ももたらしていないという意味で、まぐれ当たりの正解には何の価値もありません。

 正しいか間違いかで言うなら、体系としての信念は、必ずどこかがまちがっています。その中の個別の命題についても、やはり、まちがっていることはいくらでもあります。まちがいたくないなら、何も言わなければいい。これだけが、「まちがったことを言わないため」の唯一の方法です。……ただし、これとて「何も言わないことがそもそも間違っている」としか言いようのない状況での誤り回避の戦略には、ならないのです。だとすれば、私たちは、不可避に間違う可能性の前に立たされていることを認めなければなりません。


 この認識を前提に、私たちはどこまでを個人として責任を負うのでしょうか。そもそも、私たちが到達しうる最善の正しさとは何か。言うまでもなく、絶対的な正しさではありえません。そうではなく、判断しなければならない時点において、実際に思いつけていた様々な仮説の中から、証拠に照らして最善と思える仮説を選ぶ、そういう種類の正しさでしかありえません。私たちが最善の努力で果たしうる責任とは、そのようなものではないでしょうか。

 そうであるならば、検討可能な様々な仮説を差別なく吟味したかどうか、利用可能な様々な証拠を差別なく採用したかどうか、判断過程の検証こそが重要なのだと言えるでしょう*1。だから、判断過程のプロセスを明晰に言葉にすること、その際に利用した証拠をできる限り隠さずに明らかにすること、これが先に述べた責任の一部として含まれるでしょう。


 もちろん、結論においてまちがっていたことが判明したなら、判断過程においてもどこかまちがっていたかもしれないと推定することは自然なことですから、結論のまちがいが判明したことをきっかけに検証がなされることも自然なことでしょう。原発事故の調査委員会などは、そのようなものです。

 しかし、ここには二つの問題が残ります。第一に、失敗が判明するまで検証がなされないということです。たとえば、原発事故に関しては、事故が起きたから検証することはもちろん必要ですが、本来であれば、事故が起きる前に未然に防げたことのはずです。2011年3月11日以前に、その検証の機会はなかったのか。有りすぎるほどあった、ということは、少しでもこの問題について調べた人であれば誰もが頷くことだろうと思います。

 そして、第二の問題に移りましょう。これはより深刻な問題です。すなわち、判断過程に関する証拠を積極的に隠蔽・破壊することでそもそもの失敗が判明しないような構造を作り出すこと、これによってより確実に責任が回避できるような構造を作り出してしまうことです。行政は、議事録や審議過程に利用した情報を隠します。警察や検察は証拠や捜査に関する情報を隠します。軍隊(自衛隊)も同様です。できるだけ文書にはせず、文書にしてもできるだけ早期に破棄し、破棄できなくても存在自体を隠し、存在が隠せなくても「紛失した」と嘘を言い、こうしたことは枚挙の暇もないほどです。終戦時の日本政府による組織的な公文書焼却も指摘しておくべきでしょう。

 もっと身も蓋もないやり方もあります。つまり、「私が私の権限でそう決めました」、「私の判断です」、これで済ませてしまう。『あなたがそのように判断したことの根拠は』と聞いても、「お答えできません」と返ってくるか、さもなければ「私の判断です」と繰り返すわけです。最近では橋下や安倍がそういう答弁をしますが、たとえば、裁判所で行われる勾留理由開示公判等もそのようになっています。最近になって初めて現れてきた傾向というわけでもないのです。


 以上のことから、次のように述べたいと思います。私たちは、結論におけるまちがいよりも、判断過程の不合理さをこそ問題にする視点を持つべきでしょう。長期的に見て、結論におけるまちがいを減らすために私たちが関与できるのは、判断過程だけなのですから。そして、判断過程を隠蔽するようなあらゆる方法を、犯罪そのもの以上に強く憎み、決して許さないという態度を採るべきでしょう。この視点の変更なくして、この腐りきった社会を立て直すことなど、到底不可能だろうと、確信しています。

*1:たとえば、2011年3月11日直後に「メルトダウンではない」と予測した人がいましたが、予測が外れたことが問題なのではありません。第一に、その人がそのように判断した根拠が十分に示されていないこと、第二に、別の人が根拠を明示した上で「メルトダウンしている可能性は否定できない」と判断できた事実により、当時の利用可能な証拠に照らしてそのような判断ができたということ、ゆえに、「メルトダウンではない」との結論に至る判断過程の不合理さが強く推認され、ゆえに批判されているのです。そして、第三に、いまに至るも以上の批判に対するまとまった応答はなされていないことが、ある意味ではもっとも深刻な問題なのです。