読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

共同性ということ

 家はあれども帰るを得ず
 共同性は、民族性に基づいた共同性に限定してさえ、民族主義の専売特許ではありません。民族主義は多様な共同性の基盤を破壊するのと同時に、民族性に基づいた共同性さえ危機に晒します。

1 共同性を擁護する/民族主義を擁護しない

 民族主義を否定することは、民族性に基づく共同性を否定しているのだし、ひいては民族性を否定している。──sk-44さんはそのように考えておられるようですが、僕は民族性に基づく共同性を否定していません。否定することになってもいません。

 同じ民族の徴において、共同性が立ち上げられる。同じ衣装を着ている。同じ言葉を話している。同じ踊りを踊る。そこで人がつながる。それは別にいいことですし、そのことを否定したことはありません。ただし、同じ衣装を着ていないなら、同じ言葉を話さないなら、同じ踊りを踊らないなら、共同性は立ち上げられない。だから、同じ衣装を着る「べき」、同じ言葉を話す「べき」、同じ踊りを踊る「べき」、そこまで言うのが「民族主義」ということです。それを僕は批判している。──はずなのですが、何度も何度もこの点は無視され、まぜっ返されてきました。そろそろいい加減にしてほしい。

 たとえば、在日の共同体において、「同じ衣装を着ている。同じ言葉を話している。同じ踊りを踊る」そういうことが徴として人をつなげることはあるでしょう。別にそれはかまわない。そこに、同じ衣装を着ているわけではない、同じ言葉を話すわけではない、同じ踊りを踊るわけではない誰かがやってきて、「私も在日だ」と言うときにどうするのか、ということです。その人が「在日だ」と言うことは、在日であることの悲哀を、その人もまた感じながら生きてきた、ということです。そのときにどうするのか。「衣装も言葉も他の何もかもが違っても、あなたも私たちと同じ苦難を生きている在日だ」と言うのでしょう。そのときに、共同性は再定義されているんです。衣装も言葉も踊りも、生きられている現実としての重要性はもちろんあっても、共同性を立ち上げるために必須なものとは違う。同じ衣装を着ているわけではない、同じ言葉を話すわけではない、同じ踊りを踊るわけではない誰かを共同性の内に迎え入れるということは、そういうことです。


 ですから、次の部分は、根こそぎ間違っています。

mojimojiさんは、徴なき民族において徴という規範性を求めることそれ自体を「余分」として退けているように、私には映る。もちろん「日本人」もまた徴なき民族であって、だから新しい歴史教科書のような原理主義が生じる。象徴天皇ある限りそんなもんは「余分」と私は言い切りますが。しかし、徴なき民族において徴という規範性を求めることに自発的に投企することさえもmojimoji さんは退けていると思えるし、そうであるなら、それはサルトルにおいてはそうでしょうが、ハイデガーにおいては違います、と応じるよりほかない。そもそも共同性という規範的概念それ自体をmojimojiさんは退けておられる。それならダンボールを被って暮らすところにも文化が存在するでしょう。生きられている現実を肯定することには同意しますが、それは「文化」の話ではない。

 徴という規範性を求めることそれ自体を「余分」とはしていません。共同性という規範的概念それ自体を退けてはいません*1。「自身のルーツを求めることを現代の政治課題とすることを退けて」もいない。ただ、求めても求めなくてもいいものとして、別の課題を優先することもアリだと認めうるものとして、あるべきだ、と言っている。


 つまり、民族性に基づく共同性と民族主義は別の話です。そして、民族主義が共同性を立ち上げることを問題だと述べたことはありません。共同性を立ち上げるとき、同時に排除の論理を持ち込むから問題なのだ、と最初から述べています。そして、排除の論理は余分です。民族性に基づく共同性と排除の論理*2を結合させる思想──民族主義──は余分です。sk-44さんの議論の大半はその区別がつかないことを前提にしていますが、その前提は成り立ちません。僕としては、何度も示唆してきたつもりのことです。

 文化が規範的概念であるというのは、二つの意味が込められているでしょう。一つは、文化がある形式である以上、○○文化とはこういうもの、という意味は当然含みます。これを問題にしているのではないのは、繰り返し書いてきたことから明らかだと思いますが、わざわざ書いておくことにします。もう一つ、つまり、僕が批判している意味での規範性とは、そうである「べき」とまで言ってしまうことを指しています。具体的なある人に対して、ある模範的な形式を身につけるべき。というような。sk-44さんが、民族性に基づく共同性と民族主義を区別できないのは、形式としての規範性と、「形式としての規範性」を模範として同化と排除を駆動させていく規範性を区別できていないからでしょう。僕は後者を批判しています。そのことは、一番最初から示しています。

同胞愛と博愛

 別様にも言いましょう。問題は共同性それ自体ではなく、民族性に基づく共同性を特権化することです。また、同胞愛それ自体も問題ではありません。同胞愛の論理で博愛の論理を否定するのが問題なのです。完全なる共同性の観念があるからこそ、私たちは民族性により共同性を特権化することなく、「必要なときには」、民族性によらない共同性をその都度立ち上げることができます。博愛の観念があるからこそ、同胞愛を特権化することなく、「必要なときには」同胞の範囲を広げたり、同胞ではない人のことを思いやったりすることができます。

 むしろ、博愛は、同胞愛の基礎にもなります。「別の誰かにとって特別な誰かに対する愛」の方から遡って、「私にとって特別な誰かに対する愛」を知ることもできるのですから。私にとって特別な誰かに対する愛(同胞愛)を知るから、別の誰かにとって特別な誰かに対する愛(別の誰かにおける同胞愛)を知ることができます。「私にとって」と「別の誰かにとって」を媒介するのが普遍性ということであり、それを等しく扱う視点を理解することが「博愛」ということです。──博愛は、理解の問題であり、愛の問題ではありません。博愛は、神の愛であり、人間の愛ではないのですから。人間にとっては、それを視点として使えればよい、つまり理解があればよいのであって、神のように愛する必要はありません。

 ゆえに、同胞愛と博愛を殊更に対立させる発想は、そもそも成り立ちません。成り立たないだけでなく、その前提を取ることにより、同胞愛を博愛から絶縁されたものにしている。それは同胞愛の基礎を破壊することです。シオニズムがやっていることと同じように。

2 「親に祝福されなかった子」の複数

個人の自律を尊ぶことは、親に祝福されなかった子供の欠落感を贖うことではない。多くは――私を含めて――親に祝福された子供の手前勝手です。親に祝福された子供のことを、マジョリティと言います。親に祝福されなかった子供の欠落感を贖いうるものは何か。承認です。贖った結果がジンバブエでありルワンダでありユーゴであった以上、殊更に贖う必要はない、ディアスポラこそ、倫理の条件なのだから、とmojimojiさんは仰るでしょうか。私自身についてはそのことに同意しますが、繰り返しますが、それは親に祝福された子供の手前勝手です。それをして無自覚と言います。

 親に祝福されなかった子どもばかりを集めて一つところにまとめておくと、しばしば、そういう子どもたちの間での暴力が発生します。自らの欠落感を補うために他者を下位に置いて支配しようとする。と説明すればできるでしょう。しかし、そのようなやり方で欠落感を補おうとはしない子も、います。このような状況を肯定することは、「親に祝福されなかった子供」の一部のために、別の子供を生贄として与えるに等しい。それこそ「親に祝福された子供の手前勝手」な理屈と思います。ヤンクミじゃあるまいし。それを承知で「仕方ない」と思っているのなら「処置なし」というところです。

 親に祝福されようとされまいと、他者を支配して踏みつけにすることで自らの欠落感を補うことはまちがっています。放置されるべきことでもありません。その欠落をいかに贖うかとは無関係に、それはまちがっています。そう断言するところから考え始めるしかないことです。今のsk-44さんの主張を正当化するためには、埋められない欠落があることを言うだけでは足りません。そうして他者を踏みつけにすること「だけが」欠落感を補う、"if and only if"の意味で主張するのでなければ足りません。まぁ、そのように主張することは、「踏みつけにされる側は必要な生贄です」と言うに等しいのですが。

 言うまでもなく、社会的背景を問題にすることは必要です。しかし、そのことと、他者を支配して踏みつけにすることで自らの欠落感を補うことはまちがっていると述べることは両立します。述べることだけではありません。実際問題として、暴力の現場に介入して、ふるわれている暴力を止めることとも両立します。暴力を止めることは、欠落感を贖うことになるわけではありません。そんなことと関係なく、暴力を止めるよう、試みられます。止めることができたにせよできなかったにせよ、そこでふるわれた暴力はまちがっていますし、それが欠落感を贖おうと贖うまいと、止めることは正しいです。──ここで「止めることは正しい」と言い切れない人は、生贄を肯定しているのだということを、わかりやすくどこかに明言しておいてください。「そういう人だ」ということにしておきますので。


 もう一つ。他者を支配し抑圧したことの一切は、他者を支配も抑圧もしない人間になりたいと願い始めたとき、重荷になります。当たり前です。ですから、他者を支配することで欠落感を補おうとしている、平たく言えば、その子はそれを「望んで」やっているのでしょうが、それは、その子がそれを「望まなくなる」ときの重荷をどんどん積み上げていっているわけです。業を深めている、ということです。それは、その人自身のためにこそ、止められねばなりません。*3

 つまり、親に祝福されなかった子供の欠落に対する無自覚があるなら、同様に、その欠落を埋めるための生贄にされる子供たちに対する無自覚があるし、生贄を求めることの業に対する無自覚さがあります。どの無自覚をお好みですか?という話ではない。全部根こそぎ拒否するしかない、ということです。親に祝福されなかった子のことを考えるとは、それゆえに立ち上がれない子のことだけでなく、それでも立ち上がろうとする子も含めて考えるべきことです。

 「受け継ごうその想い」云々も、好きにしたらいいと思います。ただし、たとえば親から虐待された子が、もうその親とは関わりあいたくない、というときに、「どんな親でも親なんだから、ちゃんと子どもとしてやるべきことはやらなければならない」などと言い出すなら(世間では頻繁に言われている)、それも余分です。受け継ぎたいなら、受け継いだらいいじゃないですか。受け継ぐようなものがないとして、それを引け目に感じなければならないようなことを言い出すからおかしな話になるんです。それこそ「親に祝福された子供の手前勝手」というものでしょう。

承認について

 承認についてどう考えるか。人が人に対してする承認とは、承認することもしないこともできる存在が承認するところに意味があります。だから、第一に、財のように分配することができません。つまり、保障できません。第二に、今は承認されているとしても、その承認が途切れることがあります。だから、人は悪あがきをする。その意味で、他者からの承認を求める限り、不可避的にこぼれ落ちる人がおり、根源的に不安定なものでしかありません。「そこに依拠するしかない」という諦念は、人と人が殺し合う現実に対する諦念を即座に意味するでしょう。そんなものには乗れません。

 ニッコリほほえんで抱きしめてくれる、みたいな、戯画化された「神様」の話なら、不可知論に立つまでもなく「いるわけない」と断じます。その程度の意味での無神論云々という議論には、そもそも最初から興味関心がありません。そんなこととは関係なく、私たちが殺し合わないための、ともに生きる条件たる観念は何かと考えるなら、人が人に対して与える承認に存在の基盤を置いてはならない、ということは導かれると思います。

 人が人に与える承認がが重要ではない、という意味ではありません。そうではなく、そこに存在の基盤を置かないからこそ、獲得することも失うこともできる重要なものとして扱うことができる、という意味です。別の場所に基盤が置かれるとき、それを神と呼ぼうが何と呼ぼうが、僕の知ったことではありません。無神論に立とうが立つまいが、宗教性は問題であり続けています。


「神は死んだ」──その後は、こう続くようです。「神は死んだ。神は死んだままだ。そして我々が神を殺したのだ。世界がこれまで持った、最も神聖な、最も強力な存在、それが我々のナイフによって血を流したのだ。この所業は、我々には偉大過ぎはしないか?こんなことが出来るためには、我々自身が神々にならなければならないのではないか?」*4。文字通りにとるのは素朴過ぎるように思います。死んだ「まま」とはどういうことでしょうか?「我々自身が神々にならなければならない」とはどういうことでしょうか?

 「まま」とは、「まま」ではないことがありうることを示唆しています。我々が神々になれないのであれば、神を「死んだまま」にしておけない、とも読めます。そして「神」とはそもそも何か。──これ以上は、やめておきましょう。いずれにせよ、現実を構想することと、その困難を想うことは別の話です。

補足数点

補足1 ホームレス文化

 言うまでもなく、ダンボールを被って寝ている人たちにも文化があります。靱公園にも長居にも、そこで育まれた共同性がありました。新宿西口のダンボールハウスには、たくさんのダンボール・アートが作られたと聞いています。もちろん、その背後にあった経済的剥奪は問題にされるべきです。しかし、そこに文化がなかった、などというのは、それこそ経済的に恵まれた者の手前勝手でしょう。

 いわゆる「ホームレス文化」なることを言い出した人もいました。僕はあれを好きではありません。その背景にある経済的剥奪の問題をまったく問題にしなかったからです。今もそうなのかは知りませんが、とりあえず、僕の見た限りではそうでした。そして、そうであるならば、それは批判されるべきです。生きられている文化を肯定することと、経済的剥奪を問題にすることは両立します。実際、新宿西口のダンボール・アートの中には、経済的剥奪と社会的無関心を鋭く批判するような作品もあったと記憶しています。

 むしろ、文化を即「充足」とみなす発想が、マイノリティに対する抑圧や剥奪を問題にする際に、なにか肯定的な文化があってはならない、そういう要求につながるのでしょう。「ダンボールハウスでたのしくやってるなら、それでいいじゃないか」、というわけで絶賛放置中、ということにもなるのでしょう。最初の発想がそもそも余分です。どんなところにも文化はあります。そのことと、社会的な抑圧や剥奪があることは両立しますし、それを問題化することとも両立します。

 「ホームレス文化」論が問題なのは、剥奪と抑圧の状況下にあるものを文化と呼ぶからではありません。そこから抜け出す可能性を開く「抑圧や剥奪の問題化」を無視するからであり、それは、ホームレス文化を「そうあるべき」文化とみなすからです。これは「ホームレス文化主義」とでも呼ぶべきものです。僕が民族主義を批判するのも、同じ構図です。

補足2 事の大小の問題ではない

ジンバブエには英雄的な指導者が存在し、ルワンダには多数派としてのフツ族が存在し、ユーゴには権力を求めた扇動家が存在しました。「在日」においてそれが存在するか。mojimojiさんにとっては、シオニズム批判と同一の問題としてこのことはあるのだと思いますが。多数派の扇動は少数派においても存在する――それはその通りです。民族主義が扇動に基づく動員の問題であるなら、扇動に基づく動員を批判すればよいのであって、「「私が在る」に依拠する」必要はない。

 民族主義に基づく同化圧力において、<私>の薄い民族性に対して引け目を感じる、元々問題にしていたのはそういう話です。もちろん、ジンバブエルワンダやユーゴは、その延長線上にある話です。ですが、その延長線上にあるものを最初に問題にしたのではありません。その出発点における、「相対的には小さな」と言える抑圧を、問題にしています。今更のように事の大小を問題にするのは、話のすり替えです。僕が問題にしているのは動員ですが、小さい動員ならOKという話ではありません。

 事の大小が問題であると言いたいならば。虐殺に至らない間は、その程度の引け目くらいは仕方のないことだから我慢せよ、と正直におっしゃるべきです。僕はそれに同意しませんが、少なくとも、論点はハッキリします。

補足3 真顔でコント

 真顔でコントをやっている、というのは、ディーコンのことではありません。念頭にあったのは、他の人のことです。そもそも、ディーコンがやっているのは、自分の文化の称揚ですらありませんからね。

*1:ついでに言えば、象徴天皇制も余分だと思います、というのは、徴を求めることそれ自体ではなく、徴のために人身御供を要求していることは問題だからです。また、サルトルはそんなこと言ってたんですか?そんな印象はないんですけどね、僕が知らないだけかもしれませんが。ダンボールの話は後にしましょう。

*2:排除の論理とは、同時に、同化の論理です。

*3:もし、そうは望まない、決して望まないような種類の人間であったらどうか。暴力をふるうこと「だけが」その人の欠落を埋め合わせる、そういう種類の人間が仮にいるとしたら、どうか。そのとき、「他者を支配も抑圧もしたくないと望みうる人間かもしれない」と扱うこと自体が、その人間にとって耐え難い苦痛であるかもしれません。それを「仕方のないこと」としてやるべきだ、というのが僕の立場です。だから、sk-44さんは知っていることですが、僕は死刑廃止論者です。──この意味で、なんらかの暴力や抑圧を問題にするというのは、他者を支配したり抑圧したりすること「だけが」その人の欠落を埋め合わせるという種類の人間に対する抑圧です。できれば避けたいことですが、今のところは他に考えようがない、というところです。

*4:http://www.ne.jp/asahi/village/good/nietzsche.htm