モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

「除斥期間」に関する最高裁判決について

 ブコメへのレス、わざわざありがとうございました。>http://d.hatena.ne.jp/apesnotmonkeys/20090501/p1

 話の流れとしては、次のとおり。

 ちょっと長くなったので、記事でお返事します。

もし刑事上の殺人に対する時効制度が廃止されていたとか時効成立までの期間が民法上の除斥期間を上回る年数(例えば50年)などになっていて犯人の刑事責任を追及出来ていたとしたら、遺族が民事訴訟を起こさなかった蓋然性は高かったんじゃないでしょうか。とすれば、法学的な争点がどこにあるかという問題と、この訴訟が当事者ないし潜在的当事者(未解決の殺人事件の犯人であるような人間を含む)にとってどのような意味をもつかという問題との間に、ズレがあったとしても別に不可解なところはないと思います。訴訟には固有のルールがありますから、当事者が問題にしたいことを直接、そのままのかたちで問題にできるとは限らない。これは行政訴訟などではおなじみの図式ではないでしょうか。

 おっしゃるようなズレがよくある図式なのは同意しますが、本件の「除斥期間をどうするか」という論点は、当事者や潜在的当事者にとって重要な問題です。特に、権利侵害を受けた(受けるかもしれない)人たちにおいて。

 別に、加害者処罰や自首のインセンティブの論点を打ち消そうとしているわけではありません。ただし、そういう話をする上でも、「権利侵害を受けた者の権利行使期間をどうとらえるか」という話を踏まえておくべきだ、ということを言いたいわけです。たとえば、民事責任の履行が実質的に加害者処罰になるとしても、「加害者処罰になるから」と言ってはならないわけではないですが、それとは別に、権利侵害の回復と補償をどうとらえるのか、ということから論じる人がいなければならないはずです。あるいは、自首のインセンティブについても、仮に、そのインセンティブのために時効を設定するなら、「そうした権利侵害の回復と補償を犠牲にしてでも」という前提を明示して主張されるべきです(Apemanさんがそう主張している、という話ではありません)。

 その意味で、いずれの論点を話題にするにせよ、「権利侵害を受けた者の権利行使期間をどうとらえるか」という論点を経由してから語られるべきことと思います。あちこちで語られていることを見るに、加害者処罰の論点に偏りすぎている、という感想を持っていますので、この論点への注意喚起の意味で言及しました。Apemanさんが書いたことへの批判になっているとは思いません。もちろん、Apemanさんが「書いていないが考えていること」への批判にはなっているかもしれませんが、それは僕のあずかり知らぬところです(たぶん、なっていないでしょう)。


 ただし。とりわけ、遺族が「実現出来なかった正義と公平を補完させようとするもの」と主張しているとのことですが、僕はそもそも、「金のために」と主張したとして、なんら問題ない、と思っています。ただし、「金のために」と主張するなら、世論が無関心になるくらいならともかく、積極的に叩かれかねない状況さえあります。仮に「金のために」だとして、こんな状況で誰が「金のために」と言えるでしょうか。……というようなことを思います。

 これは、本件の当事者の内心を「憶測で」述べている、というのではありません。そういう潜在的当事者がありうるし、あってかまわないだろう、という意味です。当事者は、自分の選択について述べるでしょうし、それでかまわない。しかし、ある程度距離を置いて問題に関わる人々は、当事者のある具体的な選択にコミットするのではなく、選択肢の範囲にこそコミットするべきだ、と考えます(センのケイパビリティという奴ですね)。

 その点からすると、「加害者処罰の論点に偏りすぎている」という状況自体が、当事者の主張に引きずられすぎているが故に生じていること、と言えるかもしれません。だから、新しい記事における当事者主張の引用の仕方については、批判的かもしれません。当事者の主張は、真に受ければいいと思っています。裏を勘ぐる必要はない。ただし、真に受けることと、その主張に依拠してなにかを言うことは別の話ですから。(←このパラグラフ、若干修正。18:00頃。)


 あと、Apemanさんが「原告を批判しようと思ったわけではないのはもちろん、最高裁判決を批判しようと思ったわけでもありません」は、承知しています。