倫理のダイナミクス
id:inumashさんへのコメント。
http://fragments.g.hatena.ne.jp/inumash/20060330#1143693234より。
「いじめ、カッコワルイ。」ではなくて、id:mojimojiさんの言う事も分かるんだが、彼の理想とする「正しい社会」が実現されたとして、あんまし楽しそうじゃないなぁ、と思ってしまう。
問題なのは倫理が徹底されていない事ではなく、倫理を破る快楽そのものが既に認知されてしまっていることで、そういう人達にいくら倫理の正当性を主張したところで何の意味がないんだよね。
これは後日また書くと思うけど、いじめや差別のような問題に法だけで対処して十分ではないし、法だけで対処しなければならないわけでもない。十分ではない、というのは男女雇用機会均等法などが存在する現在の状況を考えてみればいい。
他方、倫理の正当性を主張することだけで十分ではないけど、無意味だと決め付けられるわけでもない。非難された本人がすぐさま考えを変えるわけではないにせよ、非難されたという事実はその人の記憶と身体に刻み込まれる。その事実と向き合うことを逃げられる人は誰もいないのであって、その中で変わる人は変わるし、変わらない人は変わらない。それでもその都度の非難は、その人をその非難について(非難が指摘する自らの行為について)考えざるを得ない状況に暴力的に放り込むのであり、その意味で、その人を可能性に向けて開く。これが無意味であったかどうかなど証明できるはずもないし、少なくとも「無言で通り過ぎる」ことに較べてどちらに可能性があるか、という水準で見るならば、答えは明らかだ。inumash氏が「無意味」と断じるのは、彼自身の性向せっかちであるか、他者を決定できないという諦念の先で何を考えられるかを詰めて考えたことがないとか、そういうことのせいであろうと思う。
それと、僕が理想とするのは「正しい社会」ではない。それは不可能だからだ。僕が理想とするのは「正しくあろうとする社会」である。僕は可謬主義者であり、非正当化主義者だから*1。その意味で、僕は倫理や実現可能な正しさを静学的に(static)ではなく動学的に(dynamic)に考えている。
だったら、「ほら、そっちよりこっちの方が楽しいじゃん!!」って矛先を変える戦略を取らないと。人間の悪意は尽きないんだし、倫理で覆い隠せるわけじゃないでしょう。
悪意を覆い隠すことが不可能であるとは限らないけど、見通し暗いことは認める。ただし、これは最初から目標ではない。人間の悪意がもたらす害悪が、十分に小さくなれば、さらにもっともっとできるだけ小さくできれば、それができればいい。ここでも僕の理想は「悪意とその害悪のない社会」ではなく、「悪意とその害悪を小さくしようとする社会」だ。ここでも大事なのはdynamics。
「ほら、そっちよりこっちの方が楽しい」は、いじめや差別がたのしい人は、いじめや差別をしないことより、それらをすることの方がたのしいのであり、その意味で、「そっちよりこっちの方が楽しい」はそれこそ無意味だと思う。というのは帰謬法的論駁。
僕は実際には、「差別しない方がたのしい」「差別ダメ」という言説は、互いに矛盾するものではないから、両方やればいい、とだけ思ってる。なぜinumash氏が(そしてinumash氏以外の人も)殊更に二者択一的に考えるのか、僕にとっては謎。
悪意をベースとする表現、快楽が本当に無為なものだとは思わないしなぁ・・・。それは当の倫理を越える価値を生み出す場合もあるわけで。
これは明確に「ダウト」。悪意をベースとする表現、快楽が「当の倫理を越える」と評価するのは誰なのか。悪意をベースとする表現、快楽がありえることを否定しないし、それを根絶しようとも思わない。また、表現を表現として肯定することと、そこに示された悪意を倫理の座標の中で肯定することは別。だから、ここには幾つもの混乱が隠されていると思うよ。
*1:ただし、実際、局地的な正当化そのものは頻繁にやるから、問題の構図がよく分かってない人には、僕は正当化主義者に見えるだろうけども。そういう人は、クワインのホーリズムとかについて勉強するか、http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20060123/p1のコメント欄を読んでいただくか、僕が正当化している場面を引用して「これは正当化ではないのか」と尋ねてくれればいい。そこで何が前提されており、前提もろとも拒否することについて僕が同意する、という構図をちゃんと説明するから。