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天国へのビザはいらない──尊厳ある生こそを求める

 「天国へのビザ」という内科医の方(春野ことりさん)が開設しているブログがある。先日偶然見つけてしまい、大変ショックを受けて哀しい気持ちになった。と同時に、この悲しみはこの社会ではそう簡単に理解されないだろうことも知っているし、ことりさんという方の善意も疑う余地はないとも思っている。だからこそ、問題は根が深い。

 このブログのことをお話したajisunさんと、dojinさんが、先に記事を書いてTBを送っている。厳しい調子のものだが、それは故なきことではない、ということを僕も思う。今日、主にdojinさんの記事に対して、ことりさんからの応答があった。それを読み、考えることを記すことにしたいと思う。──この記事は当然、ことりさんに向けての記事になるからトラックバックもする。この記事は説得のために、少なくともその端緒となるべき記事として書かれるものである。そこに含まれている事実(あるいは、少なくとも事実の手がかりであるもの)について、ことりさんに真面目に検討してみてほしい。少なくとも、自身の主張として尊厳死を認めることを社会に向かって訴えはじめている以上、ここで僕が提示する論点について、具体的にどう考えるのかを表明しない、ということは絶対にありえない、と思う。このことは先に申し上げておく。以下、本題。


 やり取りの発端になったのは、「生きている脳」という記事なので、それを引用する。

ALSというのは、大変恐ろしい病気です。

少しずつ筋肉が動かなくなっていき、次第に寝たきりになり、最後には呼吸も出来なくなります。ついには、眼球さえ動かせなくなります。しかし、意識は最後までしっかり保たれる、というのが特に恐ろしいのです。

研修医の時、大学病院にALSの患者さんが長期入院していらっしゃいました。私は主治医ではなかったのですが、点滴当番の時に病室を訪れると、人が来てくれた事が嬉しいようで、いつもニコニコしていらっしゃったのが印象的でした。その方もやがて呼吸ができなくなると、人工呼吸器をつけられました。人工呼吸器をつけていても、部屋を訪れると、嬉しそうにいつも微笑んでいらっしゃいました。しかし、やがて微笑むこともできなくなり、その後は部屋を訪れても、目を開けることもなく、話しかけても何の反応もない、外から見たら植物状態と全く変わらない状態となりました。しかし、ALSの場合は植物状態とは異なり、身体を動かすことが出来ないだけで、意識ははっきりしているのです。

自分だったら、気が狂うのではないかと思います。

しかし、この状態になってしまうと、気が狂っても、気が狂っていることを表現する術もないのです。

早く死なせて欲しい、そう思ってもそれを伝えることもできません。

地獄ではないでしょうか。

人工呼吸器をつけても、目を開けてニコニコしていられる間はいいと思います。しかし今の段階では一度つけた人工呼吸器を外せないので、目を開けて外界と接することができなくなっても、人工呼吸器はつけられたままです。

本人が「もう嫌だ!死なせて欲しい!」と、心の中で泣き叫んでいたとしても、誰にも聞き入れてはもらえません。

その患者さんはしばらくして、亡くなりました。

最期にどういう気持ちで亡くなって行ったのか、ご本人以外の誰にもわかりません。

さて、もしあなたがこの病気になったら、どうして欲しいですか?

 ここで問題にされているのは、ALSに伴う重度の身体障害のことではない。呼吸器をつけても、意識があってコミュニケーションが可能な状態であれば、人工呼吸器はつけていてよい、とハッキリ述べている。問題は、ALSの病状としては最終段階とも言えるロックトインの状態であり、ひとまずこのエントリについて言えば、そこに限定されている。ロックトインとは、随意で動かせる身体部位が皆無になることで、外部とのコミュニケーションが一切とれなくなってしまうような状態のこと。そういう状態になったならば、「もう嫌だ!死なせて欲しい!」と思ってもそれを伝えられないので、そうなる前に、先に、「ロックトインの状態になったら死なせてね」という約束をしておく、というもの。ここで「尊厳死」が要請されている文脈は、そういうものだ。


 この内容のどこに問題があるのか。dojinさんは「勝手な想像をするな」と言った。僕もそう思う。ことりさんは「想像しないわけにはいかない」(大意)と言う。これもまたそうだろうと思う。とすれば、さしあたり、「想像可能なものはすべて想像する」という方向で考えてみよう。

 具体的にはつまり、こういうことだ。「本人が「もう嫌だ!死なせて欲しい!」と、心の中で泣き叫んでいたとしても、誰にも聞き入れてはもらえません」は、確かにその通りなのだが、同時に、「本人が「まだ生きたい、生かせて欲しい!」と、心の中で泣き叫んでいたとしても、誰にも聞き入れてはもらえない、ということだ。伝えられなくて困るのは、死にたいという意思だけでなく、生きたいという意思もまた同様である。

 また、人の考えは、変わる。たとえば、ロックトインではない状況において、「呼吸器をつけたくない」という人たちがいるのだが、また、「人工透析を導入したくない」という人たちがいるのだが、すったもんだのあげくに開始すると、機械に支えられる生を徐々に受け入れるようになる。「呼吸器や透析器につながれた生などゴメンだ」と事前に考えていた人が、導入後に「導入してよかった」と述懐することは決して少なくない。同じことがロックトインについても言えるだろうことは想像に難くない。ロックトインしたら死にたいと思っていた人が、ロックトインした段階で「やっぱり嫌だ」と思い直すことは、十分ありえる話なのだ。もちろん、生きたいと思っていた人が「やっぱり死にたい」と思い直すこともあるだろう。しかし、いずれにせよ、事前の意思表明はあてにならない、ということは動かない。
 つまり、問題は、事前の意思表明はアテにならず、事後的には意思が確認できない、ということになる。だから、この問題について尊厳死法制化は答えになっていない。


 「分からないから、選べるようにするのだ」と言うかもしれない。その選ぶ人は、ロックトインという状態についてどれほど真剣に考えたことがあるのだろうか。最近、尊厳死言説については、懐疑論の立場から三つの記事を書いたが()、こういうことを一体どれだけ真面目に考えているのか、また、考えていないとして、どれだけきちんと知らせているのか。

 さらに、考慮に入れるべき事実について言及しておく。「植物状態だった男性が意識回復「周囲の会話は全部聞こえていた」」という記事によれば、当該の意識回復した男性は「栄養チューブを外そうかという声が聞こえ絶望的な気持ちだった」と述べている。繰り返すが、「栄養チューブを外そうか」という声に「絶望的」になったのである。この人においては、「本人が「まだ生きたい、生かせて欲しい!」と、心の中で泣き叫んでいたとしても、誰にも聞き入れてはもらえない」状態だったということである。他にどのような例があるのかは分からないが、僕の知る範囲では、死に瀕して「生きたい」と思った、それまでに死んでも良いと思っていた気持ちを翻した、という例はいくらでもある。こういうことを知って、その上で尊厳死に賛成だと述べている人がどれほどいるのか。

# ついでに述べておくと、「意識がない」のであれば、治療停止する必要はないはずだ。

 他方、「もう嫌だ!死なせて欲しい!」と考える例というのは、ことりさんが筒井の小説を引用しているように*1、ロックトインする現実的な可能性を微塵も感じていない人が想像で描いたものになる。想像で何かを描くことが即ダメだ、とは言わない。しかし、自らの想像を、異なる想像をする人たちの言説とつき合わせてみることなしに(この場合なら、ロックトインの状態から生還した人、ロックトインの状態の人と共に暮らしている人、ロックトインの人を死なせることに反対の人の意見とつき合わせてみることなしに)、ただただ自分の思うとおりに書いたのだとすれば、それは妄想に過ぎない、あるいは、少なくとも、想像力の誠実な使い方とは言えない。
 
 もちろん、尊厳死に賛成する立場が、ことりさんがこれまでの歩みの中でそれなりに真剣に考えて到達した見解であることを疑わない。しかし、ajisunさんやdojinさんが批判を表明するのは(それも、怒りを伴って)当然の理由のあってのことだとも僕は思う。問題はこの先だ。ことりさんが、ことりさんの意見表明の対象にした人たちについて丁寧に考えていくなら、少なくとも現在流通している尊厳死言説に賛成することはできないはずだ、それだけの事実はある、と僕は思う。そうは思わないというならば、ここで示されたような(あるいは他にも示しうる材料があるが、それを示されるならば)、それについてどのように価値判断するのかを、その都度、表明すべきだと思う。尊厳死法制化の方向に議論を引っ張っていきたいのであれば、それをする責務があると思う。


# 最悪なのは、当該記事のコメント欄に書かれているような態度だと思う。

言論の自由
誰が何を言ってもいいのよーん。
憲法で保障されているのだから、のーぷろぶれむ。
罰せられることなんかないんだから、言ったモンがち!!
byマスメディア

 第一に、誰が何を言ってもいいとしても、言われた何かについても、誰が何を言ってもいいはずである。第二に、誰が何を言ってもいいけど、「批判されても気にする必要がない」という意味であるならば、実際に力を持っている人が「言論の内容とは関わりなく」信じることをやってよいという意味にしかならず、それでは言論の自由には何の意味もないということになる。「言論の自由」の全体主義者的理解、と言えばよいか。このコメントについて、ことりさん自身がどのような応答を返すのかについても、興味深く見守りたいと思う。

*1:しかし、筒井康隆の小説というのは、その凡庸さにかけては右に出るものがいませんね。僕の大嫌いな小説家の一人です。てゆーか、それほど明確に大嫌い、と言いきれる作家は、他に思いつきません。