モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

ロックトインを「地獄」と呼ぶことについて

 丁寧な議論をする前に、一つ確認しておきたいことがある。

 id:ajisunさんのお母さんは、いわゆるロックトインした状態*1で、既に何年も経過している。id:dojinさんもお会いしたことがあるそうだが、僕も最近お邪魔させてもらって、ご挨拶申し上げた。安らかな寝顔をされていたけれども、本当のところはどうか分からない。分からないけれども、いくつか考えることはある。本当はそれを書こうと思ったのだけど、ちょっと後回しにする。春野ことりさんのブログにコメントを寄せた方が、自身のブログで「賛成論者の人格を非難する記載があったのは残念であった」と書かれている。dojinさんのことだろうと思うが*2、ちょっと素通りすることも出来ないので、dojinさんの怒りの理由について、ちょっと触れておく。


 ロックトインして(まで)生き続けるのは地獄ではないのか。それはおそらく最初からajisunさん自身の問いなのだ。ajisunさんには、それでも生きていて欲しいという気持ちも同時にあったから、生きて欲しいと言い、生かし続けた。それは家族のエゴではないのか、という見解は誰も言わなくてもajisunさん自身が考えたことだろうし、また、誰も言わないわけがない。その中で、それでも生き続ける/生かし続けることの意味は何なのかと、年単位で問い続けることの重みを、まずは思う。山ほど後悔したりしながら、それでもああでもないこうでもないと考えて、とりあえず腹を括ったとはいえ、それは今なお、答えの出ていない問いなのだ。

 考えてみて欲しい。「地獄に母を追いやったのかもしれない」と自分を責めつつ、しかし、それでも生きていて欲しいという気持ちとの間で苛まれ続けるのだ。「だから尊厳死を」と言うのかもしれないが、ここで「尊厳死」を持ち出すことはまったく答えになっていない。なぜなら、本当は生きる意味がある、生きられるかもしれない、その可能性もあるからだ。そして、生きていて欲しいという強い気持ちもある。──生きる意味がない、と確定した問題なら、むしろ悩みはないはずだ。尊厳死すればよい。しかし、端的に「分からない」ことであるから、生かしても死なせても、問いを閉じることができないのだ。そして、とにもかくにも生きてしまった。そして、問い続けている。

 尊厳死に賛成するとして、ajisunさんの真剣さに比較しうる問い方とは、次のようなものだけだと思う。仮に、誰かを尊厳死させたとして、でも死んだその人は、本当には生きたかったかもしれない。生きられたかもしれない。それは端的に分からないことであるから、その人は生きたかった、生きられたのだとしたら、私は殺したことになるのかもしれない、と真摯に問い続けること。ajisunさんと同じ程度の真剣さで死に向き合い、その上で尊厳死に賛成するとは、こういう問いを本気で問い続けた上で賛成すること、賛成してもなお問い続けること、そのような問い方だけであると思う*3。──そして、このような問い方をしているならば、「地獄のようだ」という表現は絶対に出てこないと思う。失礼ながら、ことりさんにも、Tai-chanさんにも、この水準での真剣な問いというのはまったく感じられない*4

 さらに言う。ajisunさんは「分からないけれどもとにかく生きようよ」と励ます方向で腹を括った。人びとを励まし、死に引き寄せられつつあった人たちを実際に生きる方向へと変えてもきている。それだけではなく、生きる条件を作るために、自ら介護事業所を立ち上げ、ヘルパーの育成・派遣を担い、医療スタッフとの連携のノウハウを蓄積したりしている。足りない制度を補うために厚生労働省と本気で喧嘩してくるような人でもある。生まれた時からそういう人だったわけでもない。それでも、日本社会における介護や医療はあまりにも貧困だから、生きることを諦めて(諦めざるを得なくなって)死に逝く人が、まだ7割もいるのだが、そうした7割の一人一人の死に心を痛めたから、そうならざるを得なかった、ということである。──「人の死に数多く直面する」のは医師の専売特許ではない。また、一つ一つの死をどれほどの深さで受け止めているかは、必ずしも直面した数とは関係がないように思える。


 つまりは、ことりさんが言い放った「地獄のようだ」とは、こうした人たちに向けて放った一言であるのだということ。これをご理解いただきたい。その一言が現にその苦悩を生きている/生きてきた人を正面から侮辱する言葉であることをご理解いただきたい。「賛成論者の人格を非難する記載があったのは残念であった」などと言う前に、現に生きて苦悩する人を面罵したのだ、ということをご理解いただきたい。dojinさんはそれを知っているから怒ったのだろうし、僕も気持ちは分かる。

 ただ、誰だってそうであるように、人は知らないことがたくさんあるのは仕方が無いから、こういうこともあろうかとは思う。仕方ない、とは言いたくないが、現に起こってしまうことは起こってしまう。それは許される、とは言いたくないが、それは起こってしまうという事実はある。──僕の気持ちとしては、dojinさんが代わりに怒ってくれているから、僕は怒らなくてもいいや、それよりこのやり取りをなんとか生産的なものにしたい、という気持ちで、努めて淡々と(というほどでもないが比較的そのように)書いている。ただ、それでもなお自分たちが述べたことを取り繕おうとなさるつもりなら、ちょっと別様の言い方をしなければならなくなりますが。

# ことりさんも記事をあげられたようですね。それについての直接のお答えは、また別の記事で。

*1:随意で動かせる身体部位が皆無になることで、外部とのコミュニケーションが一切とれなくなってしまうような状態。

*2:ひょっとして、僕も入ってるのだろうか?

*3:この問いを逃げずに問うなら、たとえば長期の意識障害から回復した人はどうだったのだろうとか、その家族はどう思いながら過ごしているのだろうとか、実際に生きている人に真摯に学ぼう(dojinさんが言うような「下調べ」をしよう)という気持ちになるのではないか。と思う。ajisunさんについて言えば、ホームページにまとまった文章を載せてもおられる。「ALS ロックトイン」で検索すると、トップに出てくるから、後は知ろうという姿勢次第じゃないのか。>Welcome to Aji's room

*4:そういうふるまいを見ると、尊厳死は、閉じないはずの問いを閉じるため(閉じたことにするために)に作られる言説なのだろうな、という印象をさらに強くする。