nagonaguさんに再度応答。きりがないのでこれで終了としたい。
タイトル通りにしたいものです(嘘)*1。
言葉のインフレーション
僕は文章中では「民族主義」という言葉しか使っていません*2。記事のタグにnationalismを使っただけです(そして、それはまちがいでもなんでもないはずです)。ですから、nagonaguさんが何か言いたければ、僕が問題にしている「民族主義」に対して何かを言えばいいのであって、国家主義と民族主義の関係について拘泥する必要は元々ありません。
ただし、僕は「民族主義」という言葉しか使っていないとしても、「日本の民族主義」という言葉は使っています。言うまでもなく日本の民族主義なら国家主義との関係はなんかあるかもしれません。だから、今扱っている論点に関して言えば、「日本の民族主義」についても、「民族主義が要請する規範の制度化」という程度の意味でしょう、という説明をしたわけです。
わかりやすい文脈とは言いませんけど、元々民族主義について話しているのに、ナショナリズムの話にしたのはnagonaguさんなのであって、その意味で、混乱を招いたのはnagonaguさんでしょう。
# 実際、一番最初に記事を書いたとき、僕は「ナショナリズム」という語を使っていたのですが、アップする前に、全部民族主義に書き換えたりもしたんですから。もちろん、そんなこと誰も知る由もないことですが。これは余談。
デリカシーの欠如
私が応答で例示した「民族自決権」は、「民族主義」を切り捨てては成立の根拠を失います。故にあなたの思いはどうであれ、[C]は「民族自決権」を利用して自ら状況を切り開こうとするマイノリティの「営為」を切り捨てることにしかなりません。
なりません。「民族自決権」は、「民族主義」的規範性に依拠して定義されているものだとしても、それを獲得しようと運動している人間がガチで民族主義者である必要はないんですね。北朝鮮が打ち上げるものを「ミサイル」と信じている人間が、「人工衛星」という前提でモノを言うのは可能であるのと同じように。
法的闘争の場で「方便」を使うことと、ガチでそれを信じていることは別の話です。
排外的なマジョリティによる「民族主義」が蔓延する国家で、マイノリティが自らの「民族性」を守り/ないしは醸成するために、「民族主義」に依拠(ないしは利活用)することは私には容易に想像できます。[E]はそのようなマイノリティに、「無色透明な個」でいられるマジョリティが裸になれと武装解除を強いている(ないしは甘言している)ように受け取られるのではないでしょうか。問題はマジョリティによる排外的な「民族主義」であり、「民族主義」一般を「余分」とし排斥することに固執し論の正しさを強弁しても、現実的にはなんの解決にもならない。問題はリアルで重層的で複雑です。
「無色透明な個」の話なんかしていません。そんな人がいるとも思いません。僕が引用した話の「母」は「無色透明な個」でしたっけ?そんなわけないでしょう。
「問題はリアルで重層的で複雑です」って、そんなこと知ってます。僕の見解を覆すような「リアルで重層的で複雑」なことを具体的に示してください。で、示すのには時間がかかると思います。忙しかったら無理に返事を書かなくてもいいです。誰だって忙しいときにはそうなんですから言い訳もいりません。大変なんだろうな、としか思いませんので。
……ほとんどの人は現在を市井を生きて、普通に「民族主義」の否定的な側面もみているし知っているぐらいの良識はあると思いますよ。
そういう人は、民族主義者とは呼ばない、ということです。
個の持つ属性が、差別や排外の対象にされているときに、その属性とは無縁で私は「個」であるから、「個」に依拠しているから、そのような差別や排外とは無縁だと安寧としていられると思いますか。
だから、安寧としていられるわけではない、ってちゃんと書いたでしょう。そもそも、差別や排外の対象とされようとされまいと、私の属性と私は無縁ではいられません。最初からそういうことを書いています。ですから、個の持つ属性に依拠して差別や排外の対象が選ばれているとき*3、なおさらそうでしょう。その差別と排外に抵抗するときに、「私がこのようにある、それの何が悪い」と言えばいいし、それが言えるということは、「私」が朝鮮風の文化に親しんだ生活をしているとき、それについても「何が悪い」と言っているのだし、「私」が中途半端に同化した壊れた文化に親しんだ生活をしているときだって、それについても「何が悪い」と言えているのです。
私の属性を擁護するときに、その属性を良いモノとする思想に依拠する必要はありません。その属性を持っている私は「いっこも悪くない」という思想に依拠すればいい、と言っています。どうでしょう、これでもまだ「無色透明な個」の話をしているように見えますか?
「文化」は鎖であり、鎖を断つ武器でもある
しかし、自らのアイデンティティに邂逅し、共同体の文化を吸収し人間性を取り戻すということも充分に考えられ、[H]に関しては「民族主義」の側からもいえるのではないでしょうか。つまり(共同体の成員であるところの)人間があるから(共同体の)文化があることに立ち返る、そのことは民族主義的な文脈でもいえます。
「文化」は人間を縛る鎖でもあり、鎖を断つ武器としても利用されます。どのようにアプローチしていくのかによるのでしょうね。
「民族主義」の側からは言えません。なぜか。仮に、(1)模範的コリアンの文化があり、(2)中途半端に同化したおかしな文化があるとします。民族主義は、(1)から人間性を取り戻すことはできても、(2)から人間性を取り戻そうとするときに決定的に阻害するからです。そして、最初からそれを問題にしています。そうではなく、(1)を生きる私がいて、そのようである私は「いっこも悪くない」と言うとき、同じように(2)を生きる誰かも、そのようである私は「いっこも悪くない」と言えます。だから、個に依拠せよ、と言っているんです。どうでしょう、(1)や(2)を生きている誰かが「無色透明な個」に見えますか?
存在の耐えられない軽さ
「私たち」については、ご忠告として聞いておきます。
「勝つ」については、そこに到達できるかどうかは別にして、辿り着かれるべき状況が備えてあるべき条件をいくつか挙げることくらいはあるんじゃないですか。それを実現するためには、くらいの意味です。そういうのが一つもないなら、逆に僕はちょっと驚きますが、もしかしたら、そういう人もいるのかもしれません。どちらでも良いです。
「言葉にならなかった、たくさんの言葉」を聴くことからはじめるべき
あなたは、「あなたは私を傷つけず、私もあなたを傷つけず、必要なものは分け合う」としているが、民族性を擁護するなどと一言も言っていない。強いて解釈しても「あなたは私を傷つけず、私もあなたを傷つけず、必要なものは分け合う」は、相互不干渉と互恵の提唱でしかないでしょう。それを「民族性の擁護」だとは、少なくとも私には捉えられない。
僕のブコメだけ読んだんならわかりますが、そういう疑問をもったnagonaguさんから問われて、僕は、「民族主義の問題」を書きました。その文章の中で、僕自身の民族性を擁護しています。繰り返します。僕は、その文章の中で、僕自身の「民族性」を擁護しています。沖縄とも日本ともいいがたい中途半端なものとしての、僕自身の民族性を擁護しています。
nagonaguさんは、その文章を読んで、僕が僕の民族性を擁護しているとは読まなかった、ということです。つまり、nagonaguさんの言う民族性という概念には、日本だとか朝鮮だとか沖縄だとかカテゴライズできる何かの形式は含まれているかもしれないけれども、僕のような中途半端な存在の民族性を含んでいなかった、ということでしょう。その文章を読んで、そこで擁護されている僕自身は「無色透明な個」であると思ったのでしょうか。酷い話ですが、そういうものがあるのは知っているから、別に驚きはしません。それを批判するために一連の記事を書きました。書く必要があったこともわかりました。
まぁ、nagonaguさんは、単にウッカリしてただけかもしれません。でも、僕が「無色透明な個」の話をしていないことは、明白だと思います。最初の最初から。
最後に
以上、ありがとうございました。「反論があっても、応答するかどうかは私が勝手に判断させていただくことにします」は、いつでも誰でも、そのようにしてください。僕もそのようにしかしていませんし、そのようにしかできませんので。