モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

トリアージについて二つ

 いろんなことが言い尽くされたように思うので黙ってましたけど、わざわざ尋ねてくれた人があったので、簡単に。発端の福耳さんもいろいろ考え直されているようだし、福耳さんを批判しなくちゃ、ということではないですが。基本的スタンスとして大事なのは、この記事、かな。>「救ったこととか見殺しにしたこととかあるのかな」@こどものおいしゃさん日記
 あと、二点ほど、付け加える。


 トリアージって、別に問題の解決でもなんでもなくて、てゆーか、そもそも問題の解決ができないからトリアージが出てくるわけで。だから、トリアージが必要な場面で、トリアージを実行するだけの人たちがPTSDになったりする。人は、問題の解決が可能なのに助けられなかったことが辛いのではなく(そういう辛さもあるときにはあるだろうけど)、問題の解決が可能であろうと不可能であろうとただ助けられないというときに、そのことを直接に、辛く思う。だから、問題の解決と言うなら、トリアージが必要とされる状況をなくすこと、でしかない。

 ここはちょっと丁寧に分けて考えてもいいところだと思う。つまり、先に責任概念があって、それを果たせなかったという辛さを感じるのでは、どうやら、ない。逆に、先に「助けられなかった」という原初的な辛さがあり、その辛さが「引き受けられるべき」「でも引き受けられなかった」責任という概念を生み出す。ここで、その責任を誰が引き受けるべきなのか、誰に引き受けることが可能であったのか、ということは関係がない。ただ、先に原初的な辛さがあり、それが責任概念を要請する。そういう構図になっているらしい。──だから、「あなたに責任はない、自分を責めるな」と言って責任を解除してみたとしても、却ってその人の原初的な苦しみが取り残されて、孤立感を深めてしまうこともある。だから、求められていることは、やはり、トリアージが必要とされる状況をなくすことなのだろう。

 もちろん、トリアージが必要とされる状況を根こそぎなくしてしまうことは不可能にしか思えない。しかし、その不可能なことが求められているということを確認しておくことには意味がある。というのも、これを確認しておけば、少なくとも次のことは言えるからだ。すなわち、求められていることがトリアージが求められる状況をなくすことであるならば、少なくとも、トリアージ以外のことを考えうる場面でトリアージを持ち出してはならない。


 あと、経済学上の概念(おそらく「トレードオフ」)を教えるのに「トリアージ」はよい題材、という言い方がチラホラなされるけれども、これは批判しておいた方がよいだろうか。僕は適切な題材だとはまったく思わない。むしろ、混乱を増している。たとえば、次の記事などを参照のこと。>「ITの世界に「トリアージ」は有り得ない」
 ここでの、「トリアージの二つめの意味」が、経済学で言う「トレードオフ」にあたる。救急医療の用語としての「トリアージ」とは微妙だが、決定的に意味が異なる。

 政府の予算配分問題などで「トリアージ」を持ち出すのも、その混乱の一例だ。そこで比べられているものは、医療と教育と介護と軍事と土木工事*1と、その他いろいろ、さらに加えて「高額所得者の(なくても死にはしない)諸々のモノ」*2等々である。これらはトレードオフの関係にある。そして、それぞれの価値の軽重を問い、序列をつけていくのである。他方、ここにトリアージを持ち出すことは、それぞれの価値の軽重を問うことはできない、序列をつけることなどできない、と主張するに等しい。「一度穿いたパンツは二度と穿かない」という類の贅沢と今日の命をつなぐための介護や医療を「比較不可能だ」と前提するに等しい。……いや、前提したっていいけどね、その前提は分かりやすく明示すべきだろう。少なくとも、「トレードオフ」と「トリアージ」は、似て非なる概念であることは間違いない。

 企業のリストラ問題や政府の予算配分問題を「トレードオフ」という概念で説明するならば、それは利害対立の問題であること(だけ)が明瞭になる。「トリアージ」概念は、それ以上のことを主張する。誰かに、問答無用で解を提出する権限がある、ということを含む。その解を提出する人の価値判断を不問にする、ということを含む。経済学を使用する上で一番大事なことは、どこでどんな価値判断を持ち込んだのかをできるだけ明晰に把握しておくことだから、「トリアージ」は「トレードオフ」の代わりにはならないし、しちゃいけないと思いますね。

*1:もちろん、これら医療、教育、介護云々は、「誰の」、「どこの」といった、具体性によって、さらに細かいレベルでのトレードオフ問題を含んでいる。

*2:つまり、税制の累進度を高める、ということ。