モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

「対案を出せ」論法について

 何かについて批判的なことを言うと、すぐさま「だったら、どうするんだ、対案を出せ」などと恫喝される。これは不当だ。しかし、私たちは、ある瞬間を空白にしておくことはできないのであり、そこに何かがなければならないなら、やはり対案は必要なのである。とすれば、先の不当さは何に由来するのか。ここにあるズレをきちんと見ておかなければならない。*1

「対案を出せ」論法批判

 批判は、あくまでも問題の所在を示す。その解決が可能かどうかは分からない。大抵、示せない。しかし、それが問題であるならば、明らかに問題なのだ。たとえば、必ずしも死ななければならない理由がないのに、人が死ななければならなくなっているとき、それは問題だ。そのような状況は、「あってはならない」こととして認識されなければならない。そのようなことが「現実に起こらない」ために、何かをしなければならない。私たちは現にある現実を、そのどこかを、変更しなければならない。──それが対案だ。

 その意味で、この程度には、「対案を出せ」論法は正当なものだ。しかし、この論法がおかしいのは、対案を要求することそれ自体にはない。むしろ、「誰が」対案を出すべきなのか、という点にゴマカシがあるのである。すなわち、批判が明らかにした問題が本当に問題であるならば、対案を出すことは、「私たちの」問いのはずである。それは、批判をしたその人だけの問いなのではない。批判が示した問題を問題だとみなす、すべての人の問題なのである。

 その意味で、たとえば次のように述べられるならば、それはゴマカシなのである。──「それは確かに問題ですね。変えなければならないですね。でも、他にどうすればいいんですか。それが嫌なら、「あなたが」対案を出してください」。「あなたが」は明示的に言われないこともあるが、明らかにこのような意味で言われる。こんな風にして「対案を出せ」論法を用いる人は、共に問いを背負うつもりなどなく、意識していようといまいと、問いを封じるためにのみ、この論法を用いているのである。(一部の?すべての?)保守主義者がただの守旧派にどんどん堕落していくのは、このようなゴマカシ(自己欺瞞)を用いて問いから逃げていくからである*2

「「対案を出せ」論法批判」批判

 対案など、分からない、思いつかない、ということもあろうだろう。しかし、そうであるならば、今は分からない、自分には答えられない、ということを率直に認めるべきである。人々に、問いを共有することを呼びかけるべきである。そこには苦悩が滲むはずである*3。最低限そのくらいのことはできる。保守主義者に欠けているのはこういう率直さであろうが、では、「ラディカルな」人たちはどうであろうか。

 実は、ここに奇妙な相似形があるのだ。「対案を出せ」論法が批判そのものを封じ込める恫喝として作用するのに対して、批判が「対案についての思考」を停止させるような形で作用することがあるのだ。つまり、「対案を出せ」論法は、その拒否を通じて、その目論見を達成している。これでは、完全に罠に嵌ってしまっている。だから、ここでもう一度、考えなければならない。「対案を出せ」論法を拒否するとして(するべきだ)、しかし、対案のあるなしに関係なく、私たちは生きてゆかねばならない、ということについて考えなければならない。──先に述べたことからすれば(つまり、「対案を出せ」論法の問題は、「対案」要求にではなく、それを「誰に」要求するか、という点にあるのだとすれば)、私たちは「対案を出せ」論法に抗しつつ、対案を構想する権利(そう、これは権利だ)を手放さない、という行き方になるはずである。


※ 最後に、「学校を廃棄したその後」の中で「これは「まだ」批判ではない」と書いた意図について、簡単に述べる。当事者が現状の批判を行なうとき、そこに対案は不要だ。批判は批判、問題の所在を示すだけで、それ以上のことを要求される謂れはない。何かを要求しなければならない状況にあること、それがそもそも不当なのだ。しかし、「私はこうだった」以上のことを述べようとするならば、それでは済まなくなる。まして、さまざまな場所でそれぞれの実践をしている人たちを批判しはじめるのであれば*4、それは「私はこうだった」以上のことを述べることなのだから、具体的に何を作るかについて見解をただされることになるのは当然であろうと思う。

*1:当然、「学校を廃棄したその後」は、単純な「対案を出せ」論法とは違うよ、という意味を込めて書いている。

*2:たとえば、昔書いた次の記事。>「漸近する守旧派と保守主義」

*3:こういうことを言うと、「悩みさえすればいいのか」などと言い出す輩がいるけれど、一体何がいいたいのやら。こういう人は、随意的に悩んだり悩まなかったりするのであろうか。僕には分からない、不思議な感覚である。

*4:トークの中では、実際にそういう発言があったと思うが。