モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

生活保護・母子加算廃止問題

 研究メモ──母子加算の廃止と労働・出産インセンティブ
 こういう論じ方は感心しない。一見した誠実さは、実は議論を混乱させることにしかなってない。以下、詳述する。


 この問題について第一に問題にしなければならないことは、「実施される政策が、対象となる母子家庭の厚生を改善すべきか否か」だ。この観点から見るならば、「母子加算の廃止」それ自体は、対象母子家庭の厚生水準の悪化のみを帰結する。それだけ。この点に関する限り、「母子加算廃止」は、「下げてよい」との評価をしていることに他ならない。
 では、この評価をどう考えるか。これについてはlessorさんが引用している後藤玲子氏の論文が参考になる。>[ニュース][社会福祉]母子加算廃止 - lessorの日記・・・後藤氏によれば、対象となる母子家庭の生活水準は決して高くはない。これを根拠に「下げてはならない」とするのが、一つの立場だ。そして、この論点で対立する限り、そこで保障される最低生活の内容だけが議論されることになる。・・・言い換えれば、この論点において対象母子家庭の置かれているインセンティヴ構造を問題にするのは、まったく場違いだ、ということでもある。


[ついでに言えば、ここでのインセンティヴの問題をmoral hazardと表現するのは経済学における常識であるが、ここに既に価値判断が忍び込んでいる。moralが守られなくなるhazardとしてインセンティヴ構造が機能しているという意味であるが、それぞれの具体的問題において何がmoralであるのか明示されることは少ない。生活を改善する手段が「子を産むこと」だけであるならば、それをして何が悪い、と僕ならば思う。ここで破られているのはmoralではない。少なくとも何がmoralか明示されていない。moralを具体的に明示しない文脈においては、せめてincentive trapとでも述べた方がよいと思う。まぁ、経済学全体の潮流に反してこの言葉を使っても、誰も気にも止めないかもしれないけど。]


 当たり前のことであるが、このインセンティヴ構造を議論する必要がない、と述べているのではない。仮に、最低生活についての最低ラインをとりあえず確保した上で、たとえば現行の母子加算有りの状況下で達成されている水準をそのラインと設定したとしよう*1。インセンティヴ構造が問題になるのは、「そのラインを達成する複数の政策ミックスのうち、どれが望ましいか」という話においてである。その場合、「現行の母子加算」は一応達成できている。「現行の母子加算の廃止」は達成できない。制度変更を考えるとするならば、「母子加算の廃止+α(=対象母子家庭の厚生水準を向上させる具体的な施策何か)」でなければならない。・・・つまり、dojinさんの議論は、最低生活の水準についての議論とその達成方法についての議論を混同している。むしろ、後者の議論によって前者の議論を「隠蔽している」と言っていい。


 「就労支援を条件に廃止を求めた」のだから、「α=就労支援ではないか」と述べるかもしれない。・・・むしろ、そこまで分かっているのであれば、その「就労支援」とやらをきちんと具体化し、セットで提案するべきなのだ。「就労支援」を口にしただけで母子加算廃止を先行させるというのは、期限もつけられていなければ反故にしたときに誰がどのような形で責任を取るのかも明記されていない約束手形(つまり、空手形)でしかない。「就労支援」との記述を現時点で真に受けるのは、こんな糸の切れたタコのような約束手形を現金だと取り違えるのと同じである。繰り返すが、「そこまで分かってるんなら、それを先にやれよ」と言うのが筋だ。あくまでも廃止が選考しているのであれば、それは「目標達成のための手段」ではなく、「達成されるべき水準はどこか」が問題になっているのだと述べているに等しい。であるから、「それはまかりとおらぬ」とだけ、言えばよいのだ。(あるいは、明確に、「母子加算を受けている家庭の生活水準は高すぎる、と、後藤論文に真っ向から反対する形で述べればいい。後藤論文は理解するが、それとは別に・・・という語り方は、繰り返しになるが、異なる論点を混同しているということである。)


 dojinさんが、あちこちに書いていることについては、まだ他にも言いたいことが幾つかあるけれど、時間が限られているので、とりあえず区切りがついたところで止めておく。今回もそうだけど、dojinさん、経済学者に遠慮しすぎ。僕はできるだけ沢山の人、とりわけ社会について何事かを考えたい人はは経済学を勉強した方がいいと思っているけれども、それは経済学の有用性を学ぶということだけではない。大事なことは、次のことである。人は、経済学者が口にすることは、それが価値判断を含むものであっても、経済学者が口にする以上は「経済学的知見に基づいた」ものだと思うだろうけど、それは違う。経済学者は、経済学的な知見と個人的な価値観を混ぜこぜにして発話しており、そうした発話を分離して解釈しなおすためには、経済学を学ぶ必要がある。・・・僕はその意味において、経済学を学ぶことは大事だと思っている。「経済学を学ぶのは、経済学者に騙されないようにするためだ」という言葉は、今、現在においても当てはまる話だと思う。

*1:もちろん、これでは足りないと考えているが、ありえる最低生活の、そのまた最低ラインとして、である