体罰ではなく懲罰を
体罰問題関連、いろいろ見ていて、次のような記事を発見。なんで体罰が問題になるのか分かった気がする。
「授業を進めるために、その子供を放って置くと、学習権を放棄させたとなるから、お手上げだ。」とか言う状況なんだそうな。「アホか」と正直思った。先のエントリについては、「現場教師の無能」という言い方はさすがに酷だったかもしれない。問題は学校管理に向けた、主に管理職連中の戦略の欠如にあり、第一に無能なのはこういう上に立っている連中だと言わねばならない。そうなると、現場教師は管理部門からの支援をまったく受けられないままに、抑止力もなく、教室で孤立させられているわけだ。教師にストレスで精神的に病んでしまうケースが増えているそうだが、当然だろう。いや、ほんとに、教師の個々人に矛先を向けるべきではなかった。
だからといって、先のエントリの内容を修正するつもりはない。必要なのは体罰ではなく懲罰である。そこで述べたように体罰とは、「指導に従わせることを目的にことさらに肉体的苦痛を加えること」である。苦痛を可能な限り避けつつ、問題を取り除く手段=懲罰とは違う。よって、体罰を認めろという教師は、やはりおかしい。必要なことは、苦痛を与えることではなく、妨害や暴力行使ができないように引き離すことである。四国新聞社の記事中の教師は、そこを勘違いしている。現場教師は、抑止力を要求すべきであって、対抗暴力を要求するべきではない。殴る代わりに、教室からの退出という懲罰権を求めるべきである。廊下に立たせる代わりに、ちゃんと椅子のある暖かい場所に隔離することを要求するべきである。そこに苦痛を伴わせる必要はないことのだから、大事なことは実質的に抑止力を確保することである。そこであえて対抗暴力を欲しがるのは、そこに憎しみがあるのではないか。それは既に指導を逸脱していることを、自覚すべきである。
(追記)四国新聞社取材班の次の部分にはまったく同意。
・・・追跡班は現実は理解しつつも、違和感をぬぐえなかった。
その核は、3人とも「力を背景にしないと、子供たちの奔放な行動を制御できない」と声をそろえたことだ。体罰をする、しないは結果だが、子供たちは「やられる」というある種の恐怖感がないと、言うことを聞かないという。
もし、それが現場教師の多数の実感だとすれば、怖い話だと思う。教育の原点は、思いを表現する術の伝達だ。言葉や論理によるコミュニケーションを放棄した時、教育は崩壊する。力ある者の「恐怖支配」は、上下どちらからであれ、あってはならないのが、この社会の最低限のルールだ。
まぁ、「プロは、外部の意見に耳は傾けるが、解決策を求めたりはしない。」というあたりは、そりゃ酷だろう、我々も考えていこう、くらいは言えよとは思うけどね。