モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

正義の回復と取引費用負担ルール

 生きられる権利/生きられる幸運
 http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20050206#p1


につけられたt.ikawaさんとのやり取りについて。質問してもらったおかげで、言いたいと思っていたことを順序良く整理していくことができている気がします。(どこから書いたらいいのか迷って手がつけられないことがたくさんあったものですから。)

 このエントリだけだと分かりにくいと思います。当該エントリと、そのコメント欄をあわせて読むことをオススメします。


了解しました。それは何とかすべきかもしれません。(「私たち」の範囲にもよるし、問題にもよるし、具体的に何をどうするかは難しそうですが)

 私たちの範囲は、まず私がその範囲に入るのかどうかはその人自身が決めればよいと思います。それは自由じゃないでしょうか。入るにしても、入らないにしても、相互性の観点からなすべきこと(なされたとして文句の言えること)の範囲が決まります。

 問題にもよる、というのは、まずそれが人の存在の基礎に深く関わりあうようなものであるほど重要だし、緊急性も加味して考える必要があると思います。(昨日は、すべての問題に対して、敵対か、コミットか、と言いましたが、とりあえず、もう少し問題の範囲を限定してもいいのかもしれません。) そして重要なことは、何かを検討すべき問題からはずしたときに発生すること(自らにとってもそれを保障対象とできなくなること、また保障されない人の不満の爆発を受け止めること)を考慮しなければならない、という点です。

 具体的に何をどうするかについては、とりあえず思いつくことを何かやってください、という他はないですね。とりあえず何も思いつかないなら、街頭デモにでも参加したらいいんじゃないでしょうか。それが効果をもたらすかどうかに関係なく、そこへのコミットを示すこと。実際問題としてコミットを示し続けていれば、人のつながりができ、具体的にやるべき仕事の方もだんだん明確になってきます。無意味であることを担えない人に、意味のあることは担えないというのが僕なりの経験則ですね。

 そして、こうしたことをしたとして、実際に生きられる条件を奪われている人がそれで認めてくれるかどうかは、あちら側の勝手であるということです。私たちは許しを前提に謝るような、評価されることを前提に支援するような、そういうことをしているのではなく、私たちには保障され、彼らには保障されていない何かを回復するために、当面の穴を埋めるために、できることをやっていく義務を自ら選び取るのであって、それを支援される側がどのように認識するかはまた別の話です。こうしたことを踏まえておけば、とりあえずの出発点になっていると思います。

たとえば、ある事例について、「彼等を救え」という正義と、「それは不法だ」という正義は併存するし、最終的な評価や結果(最終的に彼等が救われるか、救われるべきか)に関わらず、併存し続けてよいんじゃないでしょうか。

 併存はしていて構わないと思います。ただ、正義と法の区別について少し注意が必要かもしれません。「彼らを救え」という正義と、「それは不法だ」という_法_が併存する、ということです。おおや氏が言うように法と正義は区別されるべきものであるし、また同時に、おおや氏が言うのと反対に、フォーマルな手続を経なくても正義とは明らかにしうるものだからです。現場にいって見さえすれば、それが合法であるとしても、(それを不正な状況だといわないことの論理的帰結を引き受けたくないならば)不正な状況だといわねばならないものかどうかは分かることも多いわけですから。その上で、正義の感覚から導かれる結論と適法性の感覚から導かれる結論は、食い違うことも多いでしょう。これらの感覚が併存することはもちろん構わないと思います。

 法が主張していることが正義だ、という主張の場合でも同じことです。法が主張していることが「最低限の正義を満たしていない(=実質的な生存権保障を相互に確証する、という要件をみたしていないなら)、そのような正義は敵対されるべきものだと僕は認識します。

 ついでに言えば、専門家が求められていることは、「適法性の感覚から導かれるもの」ということではない(少なくともそれだけではない場合がある)ことが確認されていいでしょう。つまり、素人が専門家に求めるのは、しばしば「正義の感覚からの結論と適法性の感覚からの結論の間の距離についての意見」なわけです。専門家は、自らの正義感覚に照らして、この質問に答えることを求められる場合があります。もちろん、答えないことも自由ですが(求められないこともありますが)、その場合には、人々は自分の正義感覚と適法性の感覚からの結論の距離を測るでしょう。*1その距離が大きければ大きいほど、法の安定性を揺らがせることになりますが、それでいいんでしょうか?とは言えるわけです。

無論、それが相互に実力行使(暴力)として働くことがありますが(法の暴力とか、宗教裁判とか、人民裁判とか)、その可能性を相互に自覚した上で、それも含めて相互に(社会の中でも、個人の中でも)批判すればよいと思うのですが。

 それは構わないと思いますよ。ただ、現実の人々のふるまい方の方は残念ながらそうはなっていなくて、既存の法を擁護する人たちの側には自覚が希薄なようではあります。「放言左派と保守主義者の共通点」で述べたことなのですが、放言左派が自分たちが正義で批判は間違っていると素朴に信じ込んでいる場合があるように、保守主義者の方も「法の外部に正義を想定するナイーブさ」を批判しながら、「法の内部に正義を監禁するナイーブさ」の方には言及すらしないのです。どっちもどっちであることは自覚されていないように思えます。

なるほど。最初「批判するならコミットせよ」と読めたので質問しましたが、「批判するならコミットか敵対せよ」ですね。それなら理解可能です。また、中立を装っても、無意識でも、「コミットか敵対か」のいずれかに入るということですね。我々はそれを自覚しなくてはならない、と。

 そうですね。中立はありえない。専門家としての立ち位置だけから発言しようとするふるまいを批判する理由も、このありえない中立を装うふるまいとして許しがたいからです。

ただ、世界には無数の運動があります。立場を決めやすい単純なものから、決めにくい複雑なものまで。世界的な大運動から、運動とも呼べない些細なものまで。これら全てに、自覚に関わらず、自動的に「敵対かコミットか」に決まるのは不思議な気がします。もっと複雑な気がするんですが。「微妙に敵対風味だけど一部コミット」とか「よくわかんない」とか「場合による」とかもあるように思います。そういう場合、別の正義を批判しちゃダメなんでしょうか。

つまり「敵対かコミットか」というのは、議論の前提としてあんまり有効じゃないような気がするのですが。

 私たちはあらゆることに対して無知でありえます。では、無知であることと倫理性の間にどのような関係があるべきか。「無知ならば責任は問えない」とすべきか、「無知であっても責任は問える」とするべきか。問題を解決するための道筋を開きうるルールは後者しかない、と思います。無知を認めたとたんに、実際に無知であるかどうかに関係なく、人々は無知であることを言い訳に使い始めます。

 一般のドイツ市民は無知に安住し、その上に殻をかぶせた。ナチズムへの同意に対する無罪証明に、無知を用いたのだ。目、耳、口を閉じて、目の前で何が起ころうと知ったことではない、だから自分は共犯ではない、という幻想を造り上げたのだ。
 知り、知らせることは、ナチズムから距離をとる一つの方法だった(そして結局、さほど危険でもなかった)。ドイツ国民は全体的に見て、そうしようとしなかった、この考え抜かれた意図的な怠慢こそ犯罪行為だ、と私は考える。
プリーモ・レーヴィアウシュヴィッツは終わらない』からの引用を徐京植『半難民の位置から』p.90より孫引き)

 私たちが無知であるときにも、知らないところでその人の生きる基盤が奪われているとき、私たちと生きる機会を奪われる人たちの間で正義は破壊されているとまず認めるべきでしょう。ゆえに、私たちと彼らの間にある正義を存在せしめようとするなら、「運動の存在を知らない」という場合でさえ私たちの責任は解除されない、と考えるべきです。存在は知っているが、その運動にコミットしてよいかどうか分からないときでさえそうです。知らないとき、よく理解できなくてコミットできないときに言える言葉は、「知らないから仕方がない」「理解できないから仕方がない」であってはなりません。

 では、現実問題として何が言えるか。まずは「すまなかった」という謝罪の言葉しかないと思います。それは許されることを予定した言葉であってはならないのですが、私たちはまず「知らなかった」ことをあやまるべきだし、「知っていたがコミットしきれなかったこと(その間コミットの空白をもたらしたこと)」についてあやまるべきだと思います。その謝罪を相手がどう受け止めるかは分かりません。その仕方なさに共感し、迎え入れてくれるかもしれません。しかし、その共感は約束されたものではないし、非難される可能性もあるし、その非難は甘受すべきだ、と考えます。

 すべての社会問題を知ることはできず、知ることができてもコミットすべきかどうか判断する根拠を得るためには考えたり調べたりしなければならないがそれも適わないことがある、という問題は、これらはすべて経済学で言うところの取引費用の問題です。取引費用負担配分のルールをどう考えるか、という問題だと考えてもいいでしょう。私たちの無知や勉強不足の結果おこる正義の空白、それによって実際に権利が保障されないことで負担を負うのは「すべて」問題を抱えている本人たちです。であるならば、それ以外のコストはすべて本人ではない別の人たちが負ってもそれほど酷い話ではないでしょうし、実行可能性の面から言っても最も合理的なルールです。*2


 少し整理すれば、こういうことになります。前回までのやり取りでは、この取引費用を考慮しないモデルの中で考えていました。t.ikawaさんの疑問というのは、基本的には取引費用を誰が負うのか、という問題と捉えることができると思います。その際、取引費用負担の分配ルールはいろいろ考えられますが、私たちが問題の解決(=正義の実質的な回復)を第一の目標とするとき、この取引費用は既に生の基盤が確保されている人々の側ですべて担うとする方がより性能がよいと僕は考えます。無知ゆえだろうと考慮中ゆえであろうと、コミットしていないならばコミットしてないことによって敵対しているという自覚はまず必要です。(僕は、僕が知らないあらゆる問題の犠牲者から、敵対者として名指されるという論理を受け入れます。実際そうなのですから。しかし、これはそれほど厳しいルールでしょうか?実際に生の基盤が奪われることと比較すれば、この程度の責任を引き受けることは大したことではないと思うのですが。)

*1:その際に参照される個々に固有の正義感覚は、最低限の正義の条件をみたさない手前勝手なものである可能性はもちろんあります

*2:実際に生存権を奪われることのコストと比較して、それ以外の取引費用の方が大きいかもしれない、と主張することは可能です。しかし、そのような主張が真であるならば、そのような人にとっては自らの生存権を実際に放棄した上で、取引費用の拒否を宣言することの方がより望ましい選択になっているはずですから、ぜひともそれを実践してみてはどうだろう、と言うこともできるでしょう。