モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

保守主義者と放言左派の共通点

そして、女性国際戦犯法廷とは、少なくとも直接には関係のない論点について。僕の過去の発言、たとえば「正当な法が(少なくとも従軍慰安婦問題に関して)そもそも役割を果たしていないという事実をどう評価するのかを抜きにして、非正当の法がしゃしゃり出てくるなという発言をするとの批判」、「こうした傾向は、稚拙な右翼とは違う形で、それなりに聞くべきものもある左翼批判を展開する人たちに共通して見られる」、「放言左翼に辟易するのは分かる。分かるけれども、そのアホさ加減を批判できるのは、同じ問いを問いながら、別の答えを探す努力をしていることが前提ではないのか、と思うのだ。僕は放言左翼は嫌いだけど、放言すらしない保守主義者はもっと嫌いだ」といった発言に対しての批判としての部分に応答します。

宗教であれ共産主義であれ全体主義であれ、その手の価値体系、理想といってもいいと思いますが、そうしたものは得てして現実がその価値体系と食い違ったときに、おしなべて現実を修正すべきという方向に行きやすいわけです。ここで問題なのは「修正すべき」ではなく「おしなべて」の方なわけですけれども、だからこそ歴史上いくらでも悲劇を生んできたわけです。

現状の修正を求める思想の数々が悲劇を引き起こしてきたことを仮に認めるとしても(というより、認めるにやぶさかでないのだけれども)、戦前の日本が生んだ悲劇である従軍慰安婦問題について、戦後の日本政府が黙殺するという形でその悲劇を温存し続けてきているという事実をどう評価するのかは語られないわけです。僕が1月21日の日記で指摘した態度、悲劇を生む革新的な主張への厳しさと悲劇を生む保守主義への不可解な甘さという非対称な態度が、ここでまたしても繰り返されているとしか僕には思えないわけです。こうした非対称な態度を正当化する理屈としては、「共産主義やその他諸々の現状の革新を求める主張が引き起こしてきた悲劇よりも、保守主義が引き起こす悲劇よりマシだ」という主張がありえるかもしれません。しかし、この「マシ」という評価はどのようにしてなされるのか、この論点も愚直に考えてみるとかなり危ういです。実際、保守主義を自称する方々がこの論点をどのように考えておられるのか、とても興味深く思っています。(おおやさんが予定しているという「帰結主義的正当化」というのは、この論点に関わるものなんでしょうか?)

正統な法の外に正義を仮定することが悲劇を引き起こし、その悲劇を考慮にいれないことを「ナイーブだ」と言うのであれば、正統な法の中にのみ正義を仮定する保守主義も同様に「ナイーブだ」と言うべきでしょう。僕としては、放言も放言を禁欲した結果としての沈黙も同じように悲劇を引き起こすのだから、どっちもどっちだと見ています。結局のところ、正統な法の外に仮定される正義について、放言ではない慎重な議論を「実際に」やっていく以外ないんじゃないですかね。というのが僕の考え方です。