『経済学という教養』読みました。
『経済学という教養』は7章の途中まで読んだ。それにしても、著者じきじきにコメントいただくとは恐縮至極。おかげで、小野さんの本読んだときの記憶が徐々によみがえりつつあって、経済学とのいい意味での再会を果たせたような気がします。改めて御礼申し上げます。
(23:30)一応全部読破。特に6、7章についてはうなづくこともとても多かった。7章後半は僕にはまったく不案内なところなので、とりあえず受け取るのみ。8章はところどころ首をひねるところもありつつ、おもしろいアイデアもあり、いつの間にか読み終えた。以下は、一応のメモ。
- (6章)パレート改善の概念をもって「共存共栄」と言うのはちょっと言いすぎではないのか。スミス・ワルラス的な市場社会のビジョンは、どんな交換も交換の当事者の状況を改善する。その意味でそれは「共存共栄」かもしれないけど、その内実にはピンからキリまである。
- たとえば、とてもとても辛く耐え難いと思っていても、他の何かを守るために仕方なく性労働者になるという場合(最近こればっかり)。買春者と性労働者はまさに共存共栄なんだけど、何か引っかかる。あるいは、財政移転ほしさに沖縄が米軍基地を受け入れるという決定をしたり、地方都市が原発の建設受け入れを決定したりというとき。これもまさに共存共栄。しかし、やはりこれも引っかかる。
- これを不正ではない、ということは可能だけれど、そういう世界があまり魅力的な世界とも僕は思えない。逆に、これを不正だ、というとき、どのような理屈でそれを説明するのか。その言葉を考えたい。
- 構造改革主義の中には、日本的企業社会のあり方の変更と社会保障の建て直しの二本があるのだろうけど、前者はともかく、後者は人々の不安を取り除いて貨幣需要を減少させるためにも必要じゃないか、と考えてる。
- (7章)近代経済学に対するマルクス経済学の優位が貨幣論の充実にある、という指摘はそうだと思う。その割に貨幣の経済学は僕は不勉強だけども。
- 「本来労働者に権利が帰属するはずのものがいつのまにやら資本家に掠め取られている」(p.192)という意味での搾取は定義できない。と僕も思う。
- 不平等、格差の存在それ自体を不正として告発の道を探ることは可能じゃないかと思う。
- 7章後半はちょっとノーコメント。難しい。
- (8章)ここはいささか議論に混乱があるような気がしないでもない。
- 重箱の隅かもしれないけど、こんなとことか。おそらくは知的所有権の制限が公益に資する、という意味での話だと思うのだけど、それに付随してこんな話。「断っておくと、ここでは「公益」「公共の利益」という言葉を、第六章で紹介した「パレート基準」で測ってのもの、つまりオーソドックスな経済学の厚生主義的観点から用いている」(p.258)
- だけど、知的所有権の制限って知的所有権の所有者にとってはマイナスだから、パレート基準でいえばパレート優位とはいえない。この制限は、パレート概念とは別の基準によらなければ意味のある提言とはなりえないように思う。
- 俗流ニーチェ主義の悲壮感については、確かにその提唱者は過剰に悲壮な雰囲気をかもし出してるけど、その実践者はもっと淡々としてるんじゃないかな。というのは本筋とは関係ない話。
- 労働組合の話はおもしろかった。
- おわりに、のところは、ちょっと感動した。*1