モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

ジェンフリ・バトン?

僕がウィキペディアで見つけた「ジェンダーフリーの実践例等」についても、あんなものはフェミニストは主張していないということが言われていた。それでは、フェミニストは、あそこで語られている事柄には何一つ賛成はしないのだろうか。フェミニストが、あそこに書かれていた事柄すべてに反対するのなら、フェミニストはそんなことを言わないということを僕も信じよう。(フェミニズムの主流派はどこにいるのか - 数学屋のメガネ

 ということなので、私見を明らかにしよう。「フェンフリ・バトン」として、みんなの見解を蓄積していってもいいかもね。
 あと、これは当然聞いてよいことだと思うので聞くけれども、khideaki氏は、「実践例等」とやらを、全部とんでもない主張だと言うおつもりなのかどうか。というわけで、ジェンフリ・バトンをkhihdekiさんに贈ります。あなたの見解も詳らかにしてみて欲しい。

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どうしてフェミニズム批判は低きに流れるのか

 「フェミニズムの主流派はどこにいるのか - 数学屋のメガネ
 流れとしては、元々「フェミニズムのうさんくささ - 数学屋のメガネ」がエントリされて、それに対する批判としてx0000000000さんから、そしてrossmannさんから、それぞれ批判のトラックバックがなされた。それに対する再応答である。khideaki氏は過剰反応と切り捨てているが、僕から見れば至極もっともな批判だと思える。

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もっとバカだった頃に見たデモ

 デモなるものを生まれて初めて見たとき、僕が「日常の風景」だと思うものに似つかわしくない物々しさ、なんともいえない居心地の悪さを感じた。このような肯定的ではない感情は、まず相手のせいにされる。彼らは粗暴で、下品で、場をわきまえない連中なのだ。こういうものは、見ない方がよく、見せられるべきものでもなかったのだ。僕はその光景を作り出している人びとを白眼視していた。

 時を経て、いつしか、そこにいた人びとが何を言わんとしていたのか、その意味を知ることになる。その主張は、なされるべき主張だったのだと、今は確かに思う。述べられたことのすべてが正しくはないにせよ、しかし、正しい見解と言えるものに含まれているべき幾つかの要素が提示されていたという意味で、それは貴重な行動であったのだ、ということを知る。それを理解するのに、とても長い時間差があった。しかし、そのような時間差を経てではあっても、確かに彼らのメッセージは僕に届いたのだ。

 行動すること、行動「しておくこと」の意義深さはこういうところにあるのだろう、と思う。行動する人びとを白眼視する人びとにとってさえ、行動する人々を目撃するという経験をしてしまうならば、その経験から逃れることはできない。記憶のオモテから彼らの姿が消え去ったとしても、彼らを目撃した経験は記憶の地層のどこかに刻まれていて、ふとした拍子に亡霊のようによみがえる。そして、ふいに、理解できなかったこと(あるいは理解を拒んだこと)を、理解してしまう、理解できてしまうのである。

 だから、正しいと思ったことは、まずはきちんと述べておくことは大事なことであると、今は完全に納得している。成果を出すことはできなくとも、可能性を開いておくことはできるし、むしろ、可能性を開く以上のことができてはならないのだ。語りかけるということは、呼びかけることであって、命令することではない。語りかけるということは、種をまくことであって、刈り取ることではない。余計なことにわずらわされずに考え、思ったことを述べ、肯定的なものであれ否定的なものであれ、それらの反応を味わおう。こうした一連のことを淡々とやろう。そのことが了解できてからは、とても自由になった気がする。