モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

ジェンフリ・バトン?

僕がウィキペディアで見つけた「ジェンダーフリーの実践例等」についても、あんなものはフェミニストは主張していないということが言われていた。それでは、フェミニストは、あそこで語られている事柄には何一つ賛成はしないのだろうか。フェミニストが、あそこに書かれていた事柄すべてに反対するのなら、フェミニストはそんなことを言わないということを僕も信じよう。(フェミニズムの主流派はどこにいるのか - 数学屋のメガネ

 ということなので、私見を明らかにしよう。「フェンフリ・バトン」として、みんなの見解を蓄積していってもいいかもね。
 あと、これは当然聞いてよいことだと思うので聞くけれども、khideaki氏は、「実践例等」とやらを、全部とんでもない主張だと言うおつもりなのかどうか。というわけで、ジェンフリ・バトンをkhihdekiさんに贈ります。あなたの見解も詳らかにしてみて欲しい。


 khideakiさんの引用している事例を再掲し、僕の考え方を述べる。

  • クラス名簿を男女混合にする。
    • 「それ以外の選択肢を認めない」という意味で、たとえば「男女別名簿は禁止」というような意味でなら、反対。それは議論されるべきことだ、という見解には賛成。その上で、個人的には混合を支持する。男女の二分法という枠組は相対化された方がよいし、現状においては、男女混合名簿にすることがそうした差異を普段から意識することを可能にする。他方、男女別名簿を維持すべき理由が見当たらない。
    • khideaki氏自身もそうだが、「じゃ、あなたの主張は男女混合名簿は禁止なんですか?」と聞かれたらどう答えるのだろうか。それは議論に付すべきだというならば、少なくとも男女混合名簿の問題提起自体は肯定できるはずだ。その上で、男女別名簿を個人的には支持すると言うならば、その理由はなんなんですか?これも答えられてはいない。
  • 男女の呼称を「さん」に統一する。
    • 提案として出てくるのは理解できる。僕自身も勢いで「君」「さん」で分けて呼んでしまうことがあるが、これは癖なので、口にしてしまったことをもってネチネチ追求されるのは勘弁してほしい、くらいは思う。ただ、そのようにされた経験は一度もない。
    • ついつい言ってしまう代わりに、「僕は女子学生を「さん」、男子学生を「君」づけで呼んだけれども、そのように分けるのはなぜだろうか?」という問いを発することはある。答えは与えない。そのような問いが存在することを伝えることは大事なことだとは考える。
  • 「男女」の名詞を「女男」に変える。
    • 日本語的に変に見えるかもしれないが、これは慣れの問題で、どうしてそのように拘るのか(主に「男女」に拘る方に対して)思う。「売買春」についても「買売春」という言葉があり、そこに込められた意味もいろいろある。言葉を差異化させることは、事態を分節化して見ることを促す。そのために新しい言葉がどんどん作られることは、僕たちが世界を見るときに見落としがちな襞の部分を意識するのに役立つ。一言でいえば、言語を豊かにしているのだから、否定すべき理由がない。
    • 「男女」の使用を禁止する、なら反対だが、そんなバカなことを言う人はおるまい*1
    • 逆に、khideaki氏は、「女男」の使用を禁止せよ、と言うのだろうか?それなら、「男女」の使用を禁止せよ、というのと、少なくとも同程度に狭量だよね。
  • スカートは最も「女らしい」服装なので、制服からスカートを廃止しようとした
    • これは文脈による。僕は基本的に制服自体が嫌い*2。また、制服が指定されるときに、スカートしか指定されていないのであれば、それを問題視する声があるなら、スカートとズボンの両方が用意されるべきではない理由はない。
    • 「女が女らしさを要求される状況があるのだから、個人の趣味ではなく、文脈に働きかけるために女子たるものスカートを拒否すべきだ」という主張はありえるし、実際そのように主張するフェミニストはいるだろう。その場合、次のように考える。第一に、その主張が仮に極端だとしても、制服としてスカートしか用意されていない状況と同じ位に極端だ、とまでしかいえない。第二に、女子である一人の人間は、女子全体のために抑圧されてはならない、と考える。だから、スカートきたいならきてよいと言うべきだ。支配的な状況への抵抗は、別の手段を考えたい、と述べるだろう。
    • 実際、フェミニズムは思想的発展の一つは、そのような問題(=リベラリズムフェミニズムの関係)についても思考することからもたらされている。むしろ僕の見解は、そのように発展してきたフェミニズムから学んだことである。フェミニズムへのきちんとした批判は、実はフェミニズムの内部批判であることが多い。
  • 女子の体操着のブルマー廃止と同時に、男子の短パンも廃止し、男女兼用のハーフパンツとする。
    • 何が問題なのか、分からない。元々必須の作業着的なものとして安価に確保できることを目的とされているのであって、そのための画一性なんだろう。とすれば、男女で別にする意味がまったくなかったのだから、むしろ今までブルマと短パンに分かれていたこと自体を不思議に思う。男女兼用で済むものだし、ならば男女兼用にすれば、もっと安価にできるはずじゃないか。
  • 運動会の競技を男女混合にする。
    • 男女別競技の禁止、とかでなければ、別に混合にされてもよいものもあるし、混合と分離の両方がプログラムに入る、というのでもよい。少なくとも、男女別をアプリオリに前提するよりはマシだと考える。
  • ロッカーや下駄箱の男女別の禁止。
    • 物品ロッカーや下駄箱を分ける意味が分からない。男女別の禁止ならうっとおしいが、男女混合にしてもよい、という話なら当然だし、「男女混合の方がよいよね」という意見が語られるならば、僕自身もそれに賛成するだろう。以上、男女混合名簿と同じ。
    • よく言われるトンデモネタとして「更衣室を分けない」という話なら反対。ただ、僕が小学生の頃の1980年代初頭までは、体育の時間の前の着替えは、男女分けずに同じ教室でさせられていた。5、6年生くらいになると、恥ずかしがって皆がグラウンドに出るのを待ってから着替える女子もいた。ちなみに、そのせいでいつも遅刻して怒られていた。こういうことを我慢させるな、という話が出てくるのはむしろフェミニズムの登場以後で、フェミニズムの人たちによって主張されていると理解している。
    • 性的アイデンティティが一人一人の内面の大事な部分であることをきちんと表明したのは、あらゆるセクハラを不問にしてきた保守主義ではなく、それを問題化してきたフェミニズムの方である。最悪に極端なフェミニズムでさえ、保守主義と同等である。
  • 小学校教科書の記述を「点検」。「男の子はズボンに女の子はスカートに髪かざり」、「おじいさんは反物売り、おばあさんは家で」、「およめに来て・・・・およめに行く」、「小さなお母さんになってお昼を作る」などの表現をジェンダーフリーに反するものとする。
    • 言説批判をするフェミニストをまるで焚書官みたいに表象するわけだが、それ自体バイアスがかかりすぎているようにしか見えない。言説の存在を前提した批判を行うことと、言説の存在を否定する焚書的行為とはわけが違う。
    • 列挙された表現は、少なくとも、ジェンダーという問題系に対して鈍感な記述であるのは確かで、ジェンダー論の文脈における批判を「行わずに」、提供されるのは良くないと考える。むしろ、誰も何も批判していないならば、その状況の方が問題だと考える。
    • 教科書に載せる文章として選定している段階なら、そういう文章を使わずに編集するという努力はなされるべきだと考える。
    • 教科書に載ったものについて、ジェンダー論の観点からすれば不用意であることを批判することも自由になされてよいし、誠実な応答を受けるべき資格がある。
  • 男女別学の公立高校を共学にする。
    • 立場は未決定。ただ、分離教育は基本的には良くないのではないか、という線で考えている。これは男女に限らず、障害者など実際に分離されつつ教育されている状況を見てマズイと思うところがあるから。ただし、他方で、民族教育やろう者の教育において、固有の文化圏での教育を受けるという肯定的な面もあるので、検討の余地は多い。
    • 少なくとも、「男女別学の公立学校を共学にすべきだ」という問題提起は必要なものであることは認める。
  • 高校入試の合格者数を、男女同数にするよう要求する。
    • 主張としてはありえる。ただ、男女差別は学校を出て労働市場に参加するあたりからより苛烈になるので、自分の中では優先順位は低い。この問題を重視する人の意見があれば、聞いたうえで再検討の余地はある。
  • 黒や赤などのランドセルの色を家庭が選択することを禁止し、「女男ともに黄色いランドセル」といった、統一色を要求する。
    • そもそも「禁止」の要求が本当なのかどうか。もっといろんな色があって選べた方がいいんじゃないか、という要求なら理解できる。赤・黒に限定する必要ない。少なくとも、男子が赤いランドセルを使ってたら、「やーいやーい」とはやしたてられるような状況(そのような構図が子どもの頭の中にきちんとできてしまう状況)はよくないと考える。
    • ただ、個人的にはそもそも「ランドセル」の画一性にも疑問を持つ。決して安い物ではないのだから、「かばんなんて丈夫で持ちやすければ何でもいい」という方向で規範が解体する方を望む。

*1:仮にいるとしても、その人が「今まで何百年も「男女」だったんだから、これから500年は「女男」にしとけ」と言うならば、少なくともジョークとしては共感しつつ笑える。ただ、「男女」が使用された何百年に僕は存在しなかったので、僕が「男女」を使う権利は残しておいてくれ、と述べることになるが。

*2:関係ないが、スーツも可能な限り着ない。それが許される職場であることに毎日感謝している。