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モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

kurahitoさんてば

 http://d.hatena.ne.jp/kurahito/20091007/p1
 追記。http://d.hatena.ne.jp/kurahito/20091008/p1 へのレスを末尾に。

「等しく暴力です」というとき、反発されているのは、「暴力である」という言明ではなく、「等しい」という言明だと思われ。店舗破壊とシュプレヒコールは同じか?そんなわけはない。

 そこでの「等しい」は、「人を傷つけ、そこから追い立て、当たり前の尊厳を奪い取るという意味で」、なのだから、反対したいなら、「人を傷つけ、そこから追い立て、当たり前の尊厳を奪い取るという意味で」「等しくない」と言わなければなりません。

ヘイトスピーチに対して強権を発動させることの難しさはたんに技術的なものなのか?否、存在論的なものでしょう。言論には言論で対抗することができる。ある暴力が我々の体制を不安にさせるから、国家に対抗暴力を独占させるか否か。表現の自由に値しない言論とは何か?まさに存在論的な問題でしょう。

 なるほど。差別を受けるマイノリティたちは、ヘイト・スピーチに対して言論で対抗せよ、と。どの口でそれを言いますか。というのが一つ。

 二つ。マイノリティたちが、これまでヘイト・スピーチに対して「言論で」対抗してこなかったとでも言うのでしょうか?そんなことは、散々なされてきた。なされてきて、今があり、在特会があり、「在特会ほっとけ」がある。

 三つ。「ヘイト・スピーチには言論で対抗することができる」と述べる暇に、実際に対抗してみせることはしない「良き市民たち」が跋扈する。なるほど。美しすぎる社会ですね。

このような観点からすれば、言論の自由、集会の自由、結社の自由等々の表現の自由一般を擁護したいと願う者は、それを可能にするためのこれらの実践=反差別実践に対して多くの努力を払うべきなのです。

これはもう、「受益者負担(応益負担)」のすすめを言っているに過ぎないですね。「これとまったく正反対の態度を取った」としても、とやかく言う筋合はないでしょう。

 なるほど、「ヘイト・スピーチには言論で対抗できる」、ただし、それをやるのはご当人と物好きな人たちだけで、というわけですね。決して自分ではコストを負担するつもりがない。しかも、結果として、ヘイト・スピーチに蹂躙される人たちがいても、それは「表現の自由」のためのコストである、と。この意味でのコストは、平気で当事者に負担させる。そういうのを「ご都合主義」と言います。論難するまでもなく。

追記

 http://d.hatena.ne.jp/kurahito/20091008/p1 に関して、追記。

等しく人を傷つけ、そこから追い立て、当たり前の尊厳を奪い取るという訳ではないという意味で」「等しく」ありません。故にたんに技術的な問題ではありません。

 該当部分、僕の文章からもう一度引きます。

 「殴る」という直接的暴力も、差別のような構造的暴力も、人を傷つけ、そこから追い立て、当たり前の尊厳を奪い取るという意味で、まったく等しく、暴力です。
http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20091004/p1

 kurahitoさんが冒頭に勝手に追加している「等しく」は、いったい何の冗談でしょうか?まぁいいや。

 もう少しわかりやすく言いますね。kurahitoさんは、排外主義デモのような文化的暴力*1は「人を傷つけない」「人をそこから追い立てない」「人から当たり前の尊厳を奪い取らない」と主張するのですね?そうだと言うなら、笑いますけど。

受益者負担(応益負担)」の部分には反論していただけなかったようですが、「当事者」にすら「対抗すべき」とは言えないはず。そうした方がよいというまでの話のはずです。mojimojiさんの好きな(?)、「みんなの責任」であるはずです。

 負担せよ、は、常々主張しているところだからです。で、僕が主張しているのは「応能負担」であり、どのくらいが「応能」であるかは、とりあえずは自分で判断しろ、と、これも常々述べているところです(それこそエルサレム賞問題の頃にも述べています)。

 で、今回この問題に関して批判している人たちは、「思想はどうあれ」などと、わざわざ言う暇はあるわけです。さらに、「思想はどうあれ」と述べて、排外主義を問題にしなくて済ませるためのアレコレの言い訳を言う暇はあるわけです。つまり、少なくともそれだけの暇があるという意味での「能」があるということを、自分たちのふるまいで証明している。だから、その程度までの「応能負担」は当然求めますよ。どこか変ですか?

 似たようなことは、昔から問題にしています。以前、「排外主義者、あるいは日曜サヨク」という記事を書きました。なにかができないならともかく、余計なことを述べたり、反することを述べたりするなら、それは批判されてもしかたないでしょ、という話。

*1:ガルトゥングの分類は、直接的暴力と構造的暴力と文化的暴力の三つだったよーな気がします。