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「レイプレイ」と言論の自由、その2

 昨日の記事に付け加えることはあまりないのだけど、「読み解く」のは難しいのでしょう。同じ事を別様に言うというのは嫌いじゃないので、書いておく。


 僕は「愛好家・擁護者がこの程度である限りは、こんなものは規制さるべし」の述べているのだが、重要なのは前半の条件節の方。脚注でも述べているように、ここまでラディカル・フェミニズムをなぞって論を立てても、規制に100%賛成するわけではないのだ。僕は、どちらかと言えば、原則論的な「言論の自由」信奉者だ。規制には「最大限」反対。100%ではないけどね。

 性も、性暴力も、暴力も、差別も、殺人も、その他どんなものであれ、表現の対象にしうる。表現したらいい。表現の内容は問題にしうる。問題にしたらいい。表現も、表現を問題にする言説も、原則としては、言論の自由という土俵の上で互いにぶつかり合うことができ、それを通じて、私たちの認識は磨かれる。それでこそ「言論の自由市場」だ。いかなる言論も制約を受けない完全なる言論の自由を、まず、思い描く。これを出発点とする。

 ここに、いくつかの現実的問題を考える。たとえば、脅迫という言語行為、あるいは、フラッシュバックという現象に見られるように、表現が直接に暴力として作用しうる。だから、「完全なる言論の自由」をただ掲げるだけでは残される問題がある。そこには、表現することの意義と表現が直接にもたらす暴力についての比較考量の問題が生じる。そこで、表現することの意義が問われる。


 そもそも「それ」は悪であるのかを考えるために、「それ」を表現する必要はあるから、「それ」を表現することがある。結果、「それ」が悪であるならば、悪を表現することにもなる。「それ」が悪であるとして、その悪に抗うという場合には、その悪について知る必要があるから、やはり「それ」は表現される必要がある。だから、やはり、悪は表現される。

 悪を表現することの意味の一つは、たとえば、こんな風にある。だから、悪を表現すること自体が問題になるのではない。問題にする人はいるが、僕はそれに賛成しないし、そういう人はかなり多いと思う。さらにつっこむと、悪を肯定する表現にだって、可能性はある。それは肯定しうるのか。考え抜いてみることはアリだろう、とは思う。肯定しきれるのであれば、それは定義により悪ではなくなる、ということではあろうが、それはどうでもいい。あるいは、それが真に悪であるならば、それを徹底的に肯定しようとしたら必ず綻びが生じるのであって、その綻びを明らかにすることを通じて、悪が悪であると理解する。そういうことだってある。だから、原則としては、どんな表現も許されることの方が望ましい。と僕は思っている。

 悪を表現することが偉大でありうるのは、「悪を表現しているから」ではない。戦争の悲惨を表現した作品が名作でありうるとして、その理由が「戦争の悲惨を表現しているから」ではないのと同じように。悪を表現することを通じて、何をしようとしているのか、その表現の意義は何か、ということが、常に問われる。そして、名作・傑作とは、その意義の実現に大きく成功している作品に対して言われる。意義を作者が示す必要はない。しかし、その意義を読み解くことが「誰もできない」ような表現には、表現としての価値はないし、表現としての役割を果たしてもいない。逆に言えば、一人でもちゃんと読み解けるんであれば、そこに価値を見ることは可能だ。

 陵辱ゲームはいかに「読み解かれて」いるのか。以上述べたような肯定的な読み解きはまったくない。それは陵辱をたのしむことを目的とした表現であり、つまり、それが肯定されることは前提されている。繰り返すが、「前提されている」だ。それは人間の中にある悪を悪として「問うている」のではなく、それを前提して「たのしんでいる」のだ。そのような「読み解き」を前提するならば、それは純然たるヘイト・スピーチ以外の何物でもない。そんな表現に意義などないし、規制論を押しとどめるものはもはやない、ということになる。これに抵抗したいならば、別の「読み解き」を示す必要がある。ところが、示されない。言い換えれば、陵辱ゲーム擁護論は「表現の自由市場」に参加していない。

※ というわけで、id:furukatuさん、「言論の自由」ってのは、「盾」じゃなくて、「土俵」なんですよ。「土俵」にさえあげてもらえない主義・主張はあってはならないとは言える。しかし、現実に両立不可能なものの両方に対して「盾」であることは論理的に不可能ですから。だから、まじめに「土俵」に上がってください。


 意義などなくとも、それが人畜無害であるなら放置でいい。ただし、人に有害であることがこれほどハッキリと主張されている場合には、それではすまない。原則としては、どんな表現も許されることの方が望ましいとしても、それが直接の暴力として作用する場合には、その暴力としての意味と比較しなければならない。意義がない、つまり、ゼロであるなら、比較の結果は明らかだ。

 表現としての意義が述べられているならば、少なくとも、比較の余地はある。すぐに結論は出ないにせよ、当面は規制をせずに見守る、ということもありうる。しかし、最初から意義なんぞないと認めているなら、もう擁護する余地はないわなぁ。暴力としての批判の観点から考えるしかない。

 そうであるなら、陵辱ゲームが規制されるとしても、僕は反対できんな。もちろん、陵辱という現象を表現することを通じて、その悪を、あるいは善を明かそうと試みる別の表現については、今のところ擁護するつもりではあるけれど。