モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

HALTANさんへ、三つめのお返事

 http://d.hatena.ne.jp/HALTAN/20081101/p3 について。

「船上パーティ」に参加しない自由

う〜む・・・。素人は「べき」論だけ語っていればいい、ということなんでしょうか? ここからして自分はずっこけてしまった。こっちは、そんな悠長なことを言っていられない緊急事態がもう17年も続いてしまっていると思っていたので。

 まず、大事なことを確認しておきます。「べき」論=目的に関わる議論と手段に関わる議論は別です。そして、目的を定めずして手段の議論はできませんから、「べき」論こそが先です。論理的に言って。その上で、「具体的イメージがわからない」とおっしゃったのはHALTANさん自身です。だったら、無理に考えることはない、と述べたのです。考えたいなら、考えたらいいのではないでしょうか。別に止めてはいません。しかし、繰り返しますが、「べき」論こそが先です。論理的に言って。

※ただ、今回は、HALTANさんがどういう性質の「べき」論をしているか=していることになってるかを書かれてますので、次に取り上げます。

自分自身は、正直に申し上げて、1960〜80年代までの旧保守政治程度の経済に戻していただければそれで満足です。恐らく近現代史上、(完全ではなくても)世界のどの国よりも貧困者を減らすことに成功したのがこの30年間だったんじゃないでしょうか? mojimojiさんとその周囲の方々ほど高尚なことは全く想定しておりません。

 HALTANさんは、「世界のどの国よりも貧困者を減らすことに成功した」世界において救われてない人については、もう仕方ない、諦める、そう述べているわけです。それは「一人一人をちゃんとみんなで守る」を諦めているわけです。

 これを諦めることは、何を意味するのでしょうか?「世界のどの国よりも貧困者を減らすことに成功した」がどれほど素晴らしいことだとしても、その「成功した」世界において救われていない人にとっては、何の意味もないことです。そこで立ち止まるならば、「成功した」世界で救われている「私たち」と救われていない「彼ら」の間は断絶しています。それを「素晴らしい」と、HALTANさんと僕の間で語り合うこと、そのとき、「彼ら」はその「素晴らしい」世界に居場所を持ちません。これが「船上パーティ」と揶揄されている語り方です。

 それが、僕とHALTANさんの間でどれほど「素晴らしい」のであろうと、そこに居場所を持たない「彼ら」にとって、何の意味もないことです。だとすれば、僕とHALTANさんがそこで「素晴らしい」と述べているその世界を、尊重する義理も理由もないのです。僕とHALTANさんの側から、「彼ら」に向けて、その「素晴らしい」世界を守れ、壊すなと述べる言葉が「彼らに」聞き届けられるべき理由など、ないのです。

 HALTANさんが、「一人一人をちゃんとみんなで守る」を諦める限りにおいて、そんなHALTANさんの思いや願いを尊重する義理も理由もない人たちが存在することを、まず認めてください。HALTANさんの望む世界の中に居場所のない「彼ら」、ならびに、その「彼ら」とも共に生きたいと望むすべての人は、HALTANさんの思いや願いに頓着したいと思う動機などありません。そのことを、しっかりと自覚してください。

 以上のことを踏まえて、次のことをハッキリさせておきましょう。HALTANさんの発する提言は、すべて、「1960〜80年代までの旧保守政治程度の経済に戻していただければそれで満足」という、諦めを前提にしたところから発するものです。そのとき、「一人一人をちゃんとみんなで守る」を希望するすべての人は、HALTANさんの提言に耳を傾けるべき理由などない、一切、相手にする義理などない、ということです。僕たちには、「船上パーティ」に参加しない自由があります。

 誤解のないように、二点、注意しておきます。第一に、もちろん、僕たちが考えたいのは、「一人一人をちゃんとみんなで守る」ことであって、その中でHALTANさんも守られるような社会を望むわけです。僕たちが考えていこうとする社会において、HALTANさんの生きられる場所があるかどうかは、僕たちの関心事です。ただし、HALTANさんの主張や批判については、「一人一人をちゃんとみんなで守る」ことをそもそも目指していないのですから、相手にする意味はない、ということです。

 第二に、それでも、HALTANさんが「一人一人をちゃんとみんなで守る」ことを改めて目標に据えるのであれば、その手段を共に問う仲間とみなすことは、いつでも可能です。門戸はいつでも開かれています。後は、いつでも、HALTANさん自身の価値選択の問題です。

※ちなみに、「1960〜80年代がそんなにいい時代だったのか」自体、異論の余地のある話です。ただし、ここでは取り上げませんでした。

経済学への(無)理解について

 hokusyuさんの記事を、いろいろと槍玉にあげていますが、その点について。

…たとえばぼくは経済とか全然わからないんですけど、歴史を鑑みるに金融安定化法案は絶対とおしておかないとまずいと思います。…
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20081002/p1

 これは認めるわけですね。で、次のところが問題だ、と。> http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20081011/p1

 僕もhokusyuさんの見解に賛成するわけではありません。ただ、先に次の記事をご覧ください。> http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20081102/p1

 読んでもらえればわかると思いますけれど、リフレ派の端くれを自認するなら、hokusyuさんの認識を批判する前に、リフレの経済学の妥当性について考えるべきことが、いくらでもあるように思います。危機とは、リーマン破綻以後に生じたバブル崩壊によって「生まれた」のではなく、そもそものバブルの膨張過程に埋め込まれたものです。ここ1、2ヶ月の危機は、その顕在化に過ぎません。その過程において、リフレ派が主張するような金融緩和がどういう役割を果たしたのか、再検討すべきことがあるでしょう。とりわけ、「インフレ目標で問題解決」といった類の、金融政策単独で十二分に効果があるかのように主張した人たちは。

 自分よりも経済学の知識が劣る人をコキおろしたいだけならいいですけど、しかし、経済学を通じて自分の生きている世界を理解したい、納得したいということが主目的であるならば、穴だらけの反経済学を叩くより先に、自分自身の経済学で見直すべきところがいくらでもあるんじゃないですか?


 hokusyuさんの記述などにある反経済学的主張を批判することに、何の意味もないとは言いませんが、僕としてははなはだ効率が悪いように思います。まず、批判してみても、代わりにどう考えればいいのかが分かるわけではないし、また、批判した側が依拠する経済学の正しさの証明にもならないからです。事実問題として、現実の経済がとんでもない危機に陥っているわけですから、それをリードした経済学のどこがおかしかったのかについては口をつぐんだまま反経済学叩きをやっている人たちが信頼されるはずもないでしょう。(そして、そのような嗅覚は、極めて正しいと思います。)

 だから、僕は、自分が納得できるように、いわば構築的に物を言う、ということを心がけています*1。自分が構築的に述べられたことについて、それがたとえばhokusyuさんの見解とは違う帰結に辿り着くならば、それが自動的にhokusyuさんへの批判になるでしょう。そのときには、僕は構築的に述べたのですから、hokusyuさんはそれを読んだ上で自分のスタンスを検討しなおすこともできるでしょう。そして、それで目的を達することはできます。*2


 どちらかというと、反経済学叩きをやっている人の方が、自分の使っている経済学の欠点に無自覚であったり、あるいは、自覚的に開き直っているだけであったり、およそ反省的思考を欠いている、というのが僕の現状認識です。「GDPの使い方」に関するやり取りなども、僕はそういうものであったと理解しています。そうはならないようにしよう、というのが、僕が自戒を込めて考えているところです。そういう「半可通」の人よりも、そもそも経済学なんて知らないけれども「一人一人をちゃんとみんなで守る」を握って離さない人の方が、ずっと建設的な議論ができるように思います。*3

目的を定めずに手段は論じられない

そうでしょうか?例えば都市-地方問題などは解決がとても難しい。産業構造が高度化するほど田舎に出来ることは少なくなる、かといって首都圏一極集中も現実的ではないとすれば、個人的には中を取って六大都市圏と県庁所在地程度を重点的に再開発して大都市間交通を整備するぐらいのことはやった方がいいと思っていますが(リニアとかもさっさと作った方がいいし、中途半端な整備に留まっている整備新幹線ももっと全国に引いた方がいいと思う)、しかしそれはそれ以外の地域の「過疎」を伴うでしょうから、マチバの人間には「どうしたいか」さえ明確に決めることはまず無理だと思いますが?

 ここでの「どうしたいか」は、いつのまにか「手段」のレベルに摩り替わっています。もう一度繰り返します。「目的」のレベルで「どうしたいか」を、まず、きちんと定めること。「地域間格差が問題である」あるいは「どこに住んでいても、その人の暮らしがちゃんと守られている」、そういう問題を解決すべき、そのような目的・目標に賛成であるかどうか、これが第一に確認されるべきことです。

 mojimojiさんの仰られていることは「市民」社会の理想では御座いますが、それこそ「具体的」なイメージとして実際にどういう雰囲気を期待しておられるのか、拙には全く想像もつきません。例の「市民が頑張れば何でもできる」という念仏以上のものを何も感じないということです。

 できるかできないかなど、一体どこの誰が予言できるのでしょうか?「何をすべきか」(目的)がまずあり、「何ができるか」(手段)を考えて、その結果として「できない」ときに、「できない」ということになるわけです。話の順序はそうなっています。そして、「できない」ときにでも、「そもそも何をしたかったのか」はちゃんとあるからこそ、それが「できなかった」と語ることができるわけです。目的をどこに定めるかは、できるできない以前に、そもそも物を考えるために必要なことです。

 こういう考える順序についての当たり前の議論を、「禅問答」と言って切り捨てるということは、HALTANさんは目的合理性という観点は元より、そもそも合理的に物を考えようとはしていない、ということです。ただ、とにかく何かが我慢ならない。一言で言えば、絶望している、ということです*4

 HALTANさんは、まず、自分自身に向き合うべきじゃないですか?僕は、形而下のことについては、自己責任論など嫌いだし、どんどん人のせいにしたらよいと思います。しかし、世界と自分のつながり方を選ぶ場面の、その一点においては、人は自己責任を引受けるしかないでしょう。そこは、自分でやるしかないんですよ。

*1:たまに、そうではないことも言いますが、そういうこともあります、人間だもの。切腹

*2:一応、個人的には、HALTANさんの認識も、hokusyuさんを笑えたものではないでしょう、という気もしますが。ただし、今回はその点を具体的に取り上げるわけではないので、感想にとどめておきます。

*3:どんなに賢かろうと、最初から解けるわけがないと思っている人と、話になるわけがないじゃないですか。どんなに力が足りなかろうと、これを解かなくちゃと思っている人とは、話できますよ。

*4:ついでに言えば、絶望とは、その本質からして、思考停止そのものです。