モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

機会/結果の平等と帰結主義

 http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20081102/p1 に対する批判であるところの、
 http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20081104/1225755216 の追記について。
 あまり分かりやすくは説明しません。


 センは「潜在能力の平等」を主張することで、「何の平等か」についての議論に参入しています。同時に、最小限保障されるべき潜在能力をリスト化することに対しては慎重で、最終的に、「リストをどんどん改訂していく」という方向の議論をしていたはずです。つまり、潜在能力の測り方を脱構築していく、というわけです。「潜在能力」という焦点変数を定めつつ、その測り方を脱構築する、という議論は可能なんです。

 つまり、「結果の平等」にコミットしてても、その測り方を脱構築するという議論は可能ですので、hokusyuさんが「一意な幸福の基準のもとで平等になるように」なんてことを言っていると断定することはできません。(そして、僕はそんなことを言っていない、と読みます。)

 他方、「機会の平等」については、ある種の「機会の平等」でイケているかを再検討して脱構築していくなら、そのときに「結果」を参照するしかありません。その意味で、「機会の平等」を脱構築的に捉えていくなら、そこから「結果の平等」的な要素を排除できないんです。逆に言えば、「結果の平等」と完全に区別された「機会の平等」論は、脱構築できないものでしかありえず、それは無謬性を主張することと変わりません。この点が問題になることは、特に説明の必要はないと思います。

追記

 応答がありました。http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20081105/1225887426 について。

カネ儲けがただの趣味っていうのはね
「オマエがサッカーがすごく上手いのは不平等だ、ずるい」
「あいつがあんなに絵が上手なのは不平等だ、ずるい」
「あのオタク野郎があんなにゲームが上手いのはずるい」

「あいつがカネ儲けが上手なのはずるい」

同じ地平にある妄言になるっていうことなのだにゃ。

 カネ儲けは、ただの趣味には絶対になりません。なぜなら、誰かがサッカーがうまくても、サッカーなんか見もしなければやりもしない人は何の影響も受けませんが、誰かがカネ儲けがうまいという場合には、それはすべての人に影響を及ぼすからです。

 私たちがこの世界で手に入れて支配しうる財の量は、思いっきり単純化して言えば、この世界を流れるカネの総量に対する自分の所有するカネの量の割合で決まります。なので、それらは同じには絶対なりません。誰かのカネが増えることは、私のカネが減るのと同じことです。

 ただし、ここまでは地下猫さんの書き方に即して書きましたが、実際にここで批判されているのは、誰かが「カネ儲けがうまいこと」ではありません。批判されるべきは、「カネの分配に大きな格差が生じるようなゲームのルール」であり、基本的には、それを批判しているのです。もちろん、「「カネの分配に大きな格差が生じるようなゲームのルール」を作る」ことまで含めて「カネ儲けがうまいこと」は批判されています。

「「機会の平等」と完全に区別された「結果の平等」論は、脱構築できないものでしかありえず、それは無謬性を主張することと変わりません。」
と機会と結果をひっくり返しても成りたつよにゃ。

 成り立たないと思います。「結果の平等」と「機会の平等」は、こうして並べるからパラレルな概念であるかのように見えるだけで、実際にはそうではありません。機会(あるいは、手続き)というものが、あくまでも言語的なものでしかないのに対して、結果は、存在するもののレベルと結びついたものだからです。

 「結果の平等」は、実際に、人々が暮らしに困っていたりすることによって、絶えず、更新を迫られるからです。具体的には、豊かな人たちが満たしているニーズのうちもっとも重要度の低いものと、貧しい人たちが満たせていないニーズのうちもっとも重要度の高いものを比べて、前者<後者と判断するなら、それが実現するようにどんどん必要な手を打っていけばいいわけです。ここで、「結果の平等」という目標は脱構築されませんが、だからこそ、その手段がどんどん脱構築されていくように促す役割を果たすわけです(統制的理念、という奴ですか)。

 ここで、「機会の平等」という概念は、必ずしも必要ではありません。また、「結果の平等」は、それ自体が、そこから出発するという意味で「機会の平等」を内包してもいます。

 しかし、「機会の平等」は、そういうわけにはいきません。「機会の平等」を実現するために整備された制度を、批判して作り変えていくことを可能にする契機は、「機会の平等」の中にはありません。そのときには、「結果」を参照する必要があります。「機会の平等」それ自体は統制的理念としてははたらけないわけです。