モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

小児性愛の何を問題にしたいのか

 demianさんの記事とか読みつつ。>「最近のいろいろ」

セクシャルマイノリティ、という一般化

どうもこうしたテーマになると、同性愛者を迫害したり、SMやフェティッシュな志向を持つ人たちを鼻つまみものにしたりというのと同じことを小児性愛者や子供と恋愛関係になってしまう人に対してやってしまう人が多いなと。

 これらはすべて、「成人対象の異性愛」という規範からの逸脱として同列に排除されてきた、という歴史はある。しかし、その意味で同列に扱われてきたということは、その含む内容において同列に扱うべきものだということを意味しない。だから、上記引用部におけるdemianさんの指摘は納得がいかない。

 そもそも、同性愛やSMやフェティッシュのなにが悪いのか、僕にはさっぱりわかない。食べものの好き嫌いとなんら違いが見出せないからだ。批判者の言説においても、それ以上のものを見たことがない。しかし、小児性愛においては、小児は性的主体たりうるか、そうみなしてよいのか、ということが論点の一つになる。だから同列には扱えないのだし、同性愛もSMもフェティッシュも異性愛も別にかまわないが小児性愛だけはいかん(のではないか)、という立場はありうるし、僕はこの立場から出発している。

 整理するならば、「セクシャルマイノリティとしての小児性愛者、という視点が欠けている」のではない。小児性愛者がセクシャルマイノリティであることは否定しない*1。むしろ、「小児性愛者はセクシャルマイノリティというだけの存在ではない」という視点が欠けている言説がチラホラある、と思うわけだ。

 誤解のないように申し添えておくけれども、小児性愛の傾向を持つ人を迫害せよと言うつもりはない。持って生まれる傾向性を、人は選べないのだから。また、矯正プログラムを用意しろと言うつもりもない。僕は人の欲望のカタチは変えられると思うけれど、具体的にこうすれば変えられるよという方法が確立しているわけではないし、また、確立するはずもないと思うし、それゆえ矯正プログラムみたいなものが成功するはずがないとも思っているので。この点は後述する。

小児性愛者とともに生きるということ

 人は持って生まれる傾向性を選べない。しかし、持って生まれた傾向性とどのように向き合うか、というところでは、(何もかもを、ではないが)さまざまなことを選ぶことができる。demianさんの記事から引用する。

というのは、まさに子供と恋愛関係になってしまうという人の意見というか日記を見つけて読ませて頂いておりまして、まあこれこれこういうことでロリやペドは良くないなんて話はその人は耳にタコができるほど聞いておりまして、そのために随分自分自身を卑下してしまって傷ついているんですね。その一方で、小学校低学年の人の水着姿のDVDをサイトでレビューしているような人たちについては理解できないし憤りを覚えるといったことも書いています。さらに性的な行動についてたとえ相手が望んでいても相手のことを思うと踏み出せないと書いているんですね。つまり「犯罪的なペドフィリア」といった言葉の誤用をしてまで訴えたいようなイメージの人とは明らかに違う。

 この人物は、「小学校低学年の人の水着姿のDVDをサイトでレビューしているような人たちについては理解できないし憤りを覚える」わけだが、「小学校低学年の人の水着姿のDVDをサイトでレビューしているような人」がセクシャルマイノリティであるという認識に欠けている、というわけではないだろう。純粋な数の多寡の問題としてマイノリティ/マジョリティであるということは、それ自体では、何を意味するものでもないはず。マイノリティであろうとマジョリティであろうと、そこにあるものが実際にどんなものであるのかによって、批判されたり擁護されたりするのであって。

 そして、「性的な行動についてたとえ相手が望んでいても相手のことを思うと踏み出せない」と書かれていること。「踏み出せない」と書いているからには、「踏み出したい」欲望はあると考える。しかし、「踏み出せない」から「踏み出さない」。この人は、「踏み出さない」ことを主体的に選んでいる。それはなぜか。自らの欲望が指示することを、自分の主体において再検討しているからではないのか。そして、そういう姿勢を、まずは支持する。


 小児性愛的な傾向は、いろんな人にいろんな形であると思う。僕に関して言うならば、それはそれほど強い傾向だったと思わないけれども、しかし、小児を用いた性的表象を疑問に思う感性を長いこと持っていなかった、その程度には問題にしうるあり方を持っていたように思う。それは、小児を用いた性的表象が当たり前に流通する社会に生きてきたからこそ、そのように構築されてきてしまったということではないか。僕自身については、僕自身はそのように理解している。そして、小児性愛的傾向、それを問題視しない傾向は、自力で解体しつつある、してきたつもり*2、そういうこと。

 もちろん、誰でもが自力で解体できる、そうせよ、という意味ではない。同性愛者が同性愛者であることをやめることができない場合のように、そのような欲望自体を消すことはできないとして、しかし、そのような欲望を行為に移さないようにした方がよいと考えるとして、そのような自分を作るという作業はありうるだろう。そういう人が「踏み出せない」と口にするならば、それによって「踏み出さない」自己を作ろうとする主体的な行為でもありうるだろう。*3

 小児は性的に(も)自立した主体である、大人の性愛の対象としてなんら問題はない、という主張も、少なくとも一貫性の問題としては理解できる。本当にそうなら、それは確かに問題はないからね。しかし、「小児は性的に(も)自立した主体である」というところに「そんなわけはないだろう」とは思うから、その点で同意はしないけれども。──この点をもう少し考えておく。容姿の幼く見える人が好き、というだけであるならば、そういう相手になりうる人が実際にいる限りは、問題にはならんと思う。しかし、小児が小児である、その弱さをこそ嗜好しているのであれば、これは定義上無理だ。


 小児性愛者であることを本当に変えようがなく、かつ、小児と実際に関係をもつこともやめられないならば。小児性愛者と対象とされる小児の両方に寄り添うことは不可能なのだ。それは自明なことだ。あまり認めたくはないことだが、前提がそうであるなら、結論はこのようにしかならない。──何か見落としたことがあるだろうか?あるなら教えて欲しい。そして、見落としているのであって欲しい。それは具体的に何だろうか。そういう問いはある。しかし、ここでは見落としが仮にないとして、以下の話を続ける。

 そうであるならば。それは、小児と小児性愛者は一つの同じ社会で暮らすことのできない運命にある、ということだ。裏返して言えば、小児と小児性愛者を同じ一つの社会に迎えるためには、小児が小児でなくなるか(そしてそれは定義上、無理だ)、小児性愛者がその欲望に抗い続けるしかない、ということだ。──だから、小児性愛者であるというのは、かなりキツイな、とも思うわけだが。しかし、キツそうだからといって、もっと手心を加えた別のことを言ってお茶を濁すわけにもいくまい。

 実際、真摯な小児性愛者は、そのような「抗い」のない小児性愛者に対して批判的な目線を持っているとも思う。「小学校低学年の人の水着姿のDVDをサイトでレビューしているような人」を批判したり、「性的な行動についてたとえ相手が望んでいても相手のことを思うと踏み出せない」と躊躇ったりするのは、自分の欲望のあり方に抗っている、ということだろう。──この「抗い」は、矯正プログラムみたいなもので刷り込めることではない。「抗え」という呼びかけがあり、その声に応じようとする主体が立ち上がることによってのみ、「抗う」ことは可能となる。「抗え」という声は、たとえば自分が大事に思う相手(小児ではあっても)の「顔」だろう。だから小児性愛者とともに生きようと本気で思うならば、「抗え」と言うしかない、「抗う」ことを励ますこと以外のやりようはないと思うのだが。


※以前、「萌え絵に萌えて何が悪い!と言うだけでいいのか?」という記事も書いた。言葉の使い方として適切でない、小児性愛者に対する偏見と受け取られかねない点があることは認める。しかし、そのように批判する人たちの側でも、小児性愛セクシャルマイノリティ一般の問題に回収してしまっているとしか思えないことが多々あり、そこで指摘される「偏見」は、僕が「偏見かもしれない」と考えるものとは別のものみたいだ、という感じはすごくある。どう別なのかは、本記事を読んでもらえればいい。

※今回は小児性愛とどう付き合うか、の考え方を書いた。その上で、表現をどのように捉えるべきかについては、「萌え絵」の記事になんらかの修正を加えるべき、とも思うけれども、それはまた別の機会に。ただし、少なくとも、「抗い」が不可欠だろうという意識は、「萌え絵」を書いたときと今回とで変わるところはない。

※もう一つ。そもそも、一般に成人と見なされている相手との関係においても、小児性愛を問題にするのと同じような問題=支配的な関係がありうる、ということは考えなければならない。その点について、僕は、「成人同士の関係ならなんの問題もない」とは言わない。むしろ、問題にすべきだと考えるし、問題にされなさすぎだ、と思う。この論点においても、先に述べた「抗い」という態度が鍵になるだろうということで、だいたい分かると思う。

*1:ただし、小児性愛者の定義による。ロリペド的表現もほとんど野放しに近い社会の中で生きてきた以上、そうしたものと無縁に自分の主体が構築されているとは信じられない。さまざまなレベルに、その影響はあるだろう。その意味で、小児性愛者はマイノリティではなく、れっきとしたマジョリティであり、僕自身の中にもその傾向がある(あるんじゃないか)、という問題意識もある。「小児性愛」を、そのように定義するならば。──そうではなく、「小児性愛者がマイノリティである」と規定にしたがうなら、「小児性愛者」の定義もその規定にしたがって別のものになる。つまり、「小児性愛者はセクシャルマイノリティ」と呼ぶときの「小児性愛」は、多くの人には見られないほどの強い小児性愛傾向のことを指すと理解される。具体的には、他の人よりもそうした欲望が強い(どうやって「強さ」を測るかは別の話として、あるいは、それが実際に、ということなのか、自意識として、ということなのかも別にして)、実際に小児と恋愛関係に入る(性行為の有無を問わない)、そうした状況の人を指す、とここでは理解する。

*2:もしかしたら深層意識化しているのかもしれませんが。

*3:ついでに言えば、異性愛者だと思い込んでいた人が実は同性愛者であることに気づくとき、その人は異性愛者としての自分を「解体」できているということでもある。何が変えられるもので何が変えられないものかなど、そう簡単に分かることではない、とも思う。