モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

本気でイスラエルがかわいそうだと思うなら

 「イスラエルがかわいそうになってきたよ」@増田
 本気でイスラエルがかわいそうだと思うなら、どのように考えることになるのか。

犠牲を分けない

 イスラエルによる今回のガザ侵攻以前から、多くのパレスチナ人が殺されている。暗殺攻撃によって、あるいは、経済封鎖に起因する食料・医療等の不足によって。また、多くの人が、イスラエルによって逮捕(=事実上の拉致)されている。イスラエルによるパレスチナ人への人権侵害は枚挙に暇がないほどだ。

 そこに、今回のガザ侵攻によって、既に700名余の死者と数千人の負傷者が生み出された。今回の攻撃がもたらしたものは、平穏だった日々の破壊ではない。既に悲惨すぎるほどだった状況がさらに悲惨なものになった、つまり、追い撃ちだ。

 今回の攻撃のきっかけとなったとされている、ハマスのロケット砲の攻撃によって、聞くところでは、4名のイスラエル兵士が死亡し、30名余の負傷者が出たとされている。言うまでもなく、これら一人一人の犠牲は重い。ガザ侵攻以前のパレスチナ人の犠牲者一人一人の命や尊厳と同じように。ガザ侵攻以後の犠牲者一人一人の命や尊厳と同じように。それは当たり前のことだ。

 これらの死者をパレスチナ側、イスラエル側、と分けて、数えてみるならば、その犠牲がパレスチナ側に偏っていることは明白だ。イスラエル側の相対的に少数の犠牲者に対し、犠牲者の圧倒的多数はパレスチナ側にある。ただし、奪われた一人一人の命と尊厳に、どちら側、ということは関係がない。どちら側の犠牲者も、一人一人の命と尊厳において、同じように重い。それは当たり前のことだ。

占領を問う

 その上で、パレスチナ側の犠牲者はイスラエル側の攻撃によるものであり、イスラエル側の犠牲者はパレスチナ側の攻撃によるものである、という理解は、根本的にまちがっている。事実として違う、というのではない。問題の正しい把握ではない、ということだ。これらはまったく関係のない事象ではなく、一つの構造の中で起こっている連鎖であるからだ。もし、すべての犠牲を痛ましいものと思い、それらのすべてをなくすべきだと考えるならば、これらすべての犠牲の根本原因を考えなければならない。

 それはすなわち、イスラエルによるパレスチナの占領である。すべての犠牲者を生み出しているのは、まずは、この一点にある。

 他人を踏みつけにするならば、踏みつけにするだけでなく、息の根を止めなければならない。でなければ、踏みつけにされた側は、必ずやその足を払いのけようとするだろうから。だから、他人を踏みつけにする人々は、息の根を止めるまで、安心することができない。だから、息の根を止めなければならない。息の根を止めるつもりがないのならば、他人を踏みつけにしないところに、自らの生を根付かせなければならない。

 もし、占領を是とするならば、今回行われているガザ虐殺もまた、是としなければならない。その先にあるであろう、パレスチナ版の「ホロコースト」まで含めて。さらには、それらすべての所業を、厚顔な「「永遠の嘘」で塗り固めておかねばならない。

 そこまでの覚悟ができないのであれば、そもそもの占領を否としなければならない。それが現実にどれほど難しくみえたとしても、論理的に考えるならば、それしかありえない。

※勘違いする人があると良くないので、明記しておく。「占領の停止」とは、「イスラエルを消滅させること」ではない。パレスチナ問題において最初に目指されるべきは、イスラエル人とパレスチナ人がともに暮らす一つの国を作ることだ。

シオニズムの袋小路

 では、どうしてイスラエルは占領政策を手放せないのだろうか。その思想的基盤は、シオニズムにある。シオニズムがどういうものであるかは、ここでは詳述しない*1

 必要な範囲で簡単に特徴を抜き出せば、シオニズムとは、人間を「われわれ」と「やつら」に分けて、「やつら」を外に追い出そうとするような類の政治思想の一種だ*2。「イスラエルは「ユダヤ人」*3の国家である」。裏返せば、「ユダヤ人」以外は追い出さなくてはならない。イスラエルはそうした考え方に基づいて、「ユダヤ人」以外の人間が住んでいた場所に建国された。

 では、どうして「われわれ」と「やつら」を分けなければならないのか。その根底にあるものは、人間に対する根源的な不信、シニシズムである。一般的な意味では、人間など信用できない。そういう連中に近くにいてもらっては危険なのだ。そういう思い込みが、排除を動機付ける。しかし、排除しても安心はできない。排除しても、「やつら」はそこにいるからだ。むしろ、排除したのだから、それを恨みに思って舞い戻ってくるかもしれない。こうして、排除は「ほどほど」でとどめておくことができない。暴力はエスカレートする。相手が反撃しなければ「それをいいことに」、反撃するならば「それを理由に」して。この種のシニシズムは、失敗を運命づけられている。

 ゆえに、「われわれ」と「やつら」を分けるわけにはいかない。では、「やつら」は信頼に値するのか。そんなことはわからない。単に、排除が確実に破滅にしか行き着かないならば、信頼の道をゆくしかない、ということである。かくして、人は、人が信頼に値するから、信頼するのではない。人が人を信頼することに賭ける、その先でしか、人が人として生きる世界が可能ではないからである。

シオニズムについてつっこんで考えるには、たとえば、次の本とか。

ユダヤとイスラエルのあいだ―民族/国民のアポリア

ユダヤとイスラエルのあいだ―民族/国民のアポリア

それでも袋小路に突き進む理由

 しかし、どうして引き返せないのだろうか。しかも、ユダヤ人とは、「あのホロコースト」を経験した、その痛みを知っている者たちのはずではなかったか。そう不思議にも思う。「ホロコーストを体験したユダヤ人がなぜパレスチナ人に同じことを繰り返すのか」。よく聞かれる、というこの質問について、岡真理氏が次のように述べている(らしい。以下、「ホロコーストとシニシズム。」より孫引き)。

 ホロコーストはそれを体験した人間たちに何を教えたのか?ホロコーストという出来事とは、実は人間とは他者の命全般に対して限りなく無関心である、という身も蓋もない事実を、言い換えれば「人間の命の大切さ」などという普遍的な命題がいかにおためごかしかということを否定しがたいまでに証明してしまった出来事ではないのだろうか。それはかつて起こったのだから、また起こるかもしれない。人間にとって他者の命などどうでもよいのだから。そのことをとりかえしのつかない形で体験してしまった者たちにとって、同じことが二度と繰り返されないためには、人間の命の大切さなどという普遍的命題をおめでたく信じることではなく、それがいかに虚構であるかを肝に銘じることのほうがはるかに現実的と思われたとしてなんの不思議があろう。*4

 そして、「ホロコーストを経験したユダヤ人「にもかかわらず」ではなく、むしろホロコーストを経験したユダヤ人「だからこそ」なのだということを物語っているように思えてならない」と結論している。なるほど、と思う。

アラブ、祈りとしての文学

アラブ、祈りとしての文学

袋小路から「ともに」引き返す

 つまり、イスラエルにも言い分はある。しかし、繰り返すが、その道は袋小路でしかない。「ホロコースト、ふたたび」の恐怖があろうとなんであろうと、それは袋小路でしかない。別の道を行かねばならない。そして、それはもう一つの道しかない。人が人を信頼することの上に世界を作る、その道である。

 ただし、必要なことは、イスラエルに対して「その道を引き返せ」ということではない。少なくとも、それだけではない。その道を「ともに」引き返すことである。それはつまり、人が人を信頼することの上に世界を作る、その道を自らがゆくことであり、それを広げていくことである。


 まず、イスラエルの占領政策は批判しなければならない。実のところ、イスラエルの占領政策を不問にすることの意味は両義的である。それはつまり、イスラエルの利益を擁護するのみならず、もう一つ、「世界は信頼に値しない」という不信を実証しているのである。彼らがガザに対してやっていることは、アメリカその他の世界から追認されているのだ。だとすれば、同じことをされたくないとしても、「それをしてはいけない」と世界に訴えても、何の期待もできないことになる。もし、同じことをされたくないのであれば、「する側」に回るしかない。

 イスラエルの占領政策を批判することの意味は、一つではない。パレスチナの人々を擁護することだけではない。イスラエルを破滅の道から救うことでもある。本当にイスラエルがかわいそうだと思うならば、その占領政策は批判しなければならない。

 そして、世界中のあらゆる抑圧、不正と戦わねばならない。パレスチナ問題に限らない。また、現在の問題に限らない。「ホロコースト」に限らず、過去の悲惨な歴史を否定したり隠蔽したりするふるまいは、「悪夢が再び繰り返す」ことへの道を開くものである。あらゆる抑圧と不正の問題が、一つの問題系をなしている。私たちは、それらの問題群にしがみついて、戦わなければならない。蟻のように。

 たくさんの問題がある。しかし、一人が同時にすべてを相手にすることはできなくとも、一人が一つ、二つを相手にすることはできる。それらの一つ一つの努力がより合わされること。個々の人間の固有性を徹底的に守ること、つまり、すべての人間の命と尊厳を普遍的な意味において守ること、そこに向けた努力が積み重ねられること。現にある問題が「まだ」解決されないとしても、その解決のための努力が、信頼に値するほどの規模でなされていることが必要である。

 本気でイスラエルがかわいそうだと思う、ということは、そういうことだ。

 それは決して大仰なことではない。知ること、語ること、街頭に出ること、その他諸々のこと、敵対性を恐れずに、あらゆる場所で、あらゆる瞬間に、一つ一つの小さな努力を積み重ねること、つまりは、誰にでもできることの積み重ねでしかない。

 その上で、結局のところ自らがどのようにふるまうかは、徹頭徹尾、その人自身の自由だ。


※ イスラエルの占領を問題にすると、「そんなことを言っても無理に決まっているだろう」と、考えることなく否定する人がある。あるというか、きわめて多い。本人は現実的なつもりなのだろう。しかし、それは単に、既に示したような論理的帰結から目をそらしているだけであり、真の意味での「現実逃避」である。そして、その現実逃避は、現実主義者の自意識、「一方だけが悪いはずがない」という空虚な一般論、そうしたものによって補強される。そうして、自己欺瞞として完成する。

※関連して、デリダより、いつもの引用。

私たちは夢想家ではありません。この観点からすれば、どんな政府や国民国家も、その境界を完全に開くつもりがないことは承知していますし、正直なところ、私たち自身もそうしていないことも承知しています。家を、扉もなく、鍵もかけず、等々の状態に放っておきはしないでしょう。自分の身は自分で守る、そうですよね? 正直なところ、これを否定できる人がいるでしょうか?しかし私たちはこの完成可能性への欲望をもっており、この欲望は純粋な歓待という無限の極によって統制されています。もしも条件つきの歓待の概念が私たちにあるとしたら、それは、純粋な歓待の観念、無条件の歓待の観念もあるからです。(『デリダ脱構築を語る』、p.123)

デリダ、脱構築を語る シドニー・セミナーの記録

デリダ、脱構築を語る シドニー・セミナーの記録

*1:ちなみに、Wikipediaの「シオニズム」は参考にならない。

*2:そして、こういう類の政治思想はありふれていて、私たちにとっても他人事ではない。

*3:しかし、そもそもユダヤ人ってなんなんだろうね。その定義も、きわめて恣意的なものだ。僕は「ユダヤ人」であるとする人々が、「ユダヤ人」という概念によって何を守ろうとしているのか、さっぱりわからない。

*4:岡真理『アラブ、祈りとしての文学』より、pp.30-31あたり。