モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

ポスト「ポスト・モダン」に向けて

 バカには何を言っても聞かない、という人がいる。悪い奴は確信を持って悪いことをやっているのだから、「それは悪いことだ」と言っても無駄だ、という人がいる。バカや悪人に向かって「説教」するよりも、もっと「現実的な方策が必要だ」、とかなんとか言う。それを「プラグマティズム」とか自称していたり。──プラグマティズムってのは、そこまで底の浅いものではないはずだけれど、それはまぁ、よしとしよう。しかし、こういうことを言う人の「現実的」というのは、一体なんなのだろう。


 自分がバカだったとき、悪人であろうとするとき、そういうときのことを考えてみる。その自分を押しとどめるのは、自分以外の誰かの行為であり、言葉であり、それらの自分以外の誰かが発するメッセージだ。その誰かとは、目の前の誰かであることもある。そうではないこともある。かつて、僕に向けて発せられたメッセージが、時を経て、僕の目を開かせることもある。たとえば、こんな風に。>「「退屈な話」の向こうに見えるもの」*1

 それ以外の可能性はあるだろうか。論理的には、二通りある。一つは、生まれたときから、バカではなく、悪人でもない、という場合。いま一つは、自分で勝手にバカさ加減を、悪を克服した、という場合。どちらもまったく「非現実的」だと、少なくとも僕は思う。

 一つ一つの場面で、きちんと顔を見る。面と向かって言葉を発する。場合によっては、体を張って止める。止められなくても、拒絶の意思表示をする。その他いろいろ。ともかく、他者が発するメッセージは、それを嘲弄しているときでさえ、目にし、耳にしているのであるからには、時を越えて、私を変えてしまうということがある。というより、そのような経路でしか、人は変わることができないのじゃないか、と思う。


 さて、「現実的な方策」。そんなものが、一体、どこにあるのだろう。これが具体的に語られることは、ほぼ、ない。ここで「現実的」と言われているものは、さほど難しいものではない。目の前のバカや悪人の考えを変えてもらうことの困難の大きさ、それがただただ困難であるから「非現実的」なのであり、それを裏返せば、具体的に記述されていない未だ見ぬ「方策」は「現実的」に違いないのだ。──僕にはただ、目の前の困難さから逃げているだけにしか見えないが。


 人に向かって、面と向かって、正しいと思うことを主張すること、そのことを「傲慢だ」という人がいる。「自分の主張を正義だと確信しているのか、この身の程知らずめ」ということなわけだ。しかし、これは完全に逆である。むしろ、私は私が正しいと信じていることを、私の口で、私の身体で、表現し、主張するからこそ、それを批判したい人は、そのようにすることができる。つまり、自らの正義を確信しないからこそ、わが身に依拠して、それを主張するのだ。

 僕はむしろ、「ためらい」の中にこそ「傲慢さ」を見る。その人も、生きて何かを目指すからには、その人なりの正しさが抱えられてあるはずだが、しかし、「自分の正しさを確信しない謙虚さ」を持つ人は、それを内に秘めたままにしておく。ゆえに、その人が心の中に掲げる正義は、決して批判されない。そして、批判されない以上、それを変更する機会はずっと少ない。──さらに言う。仮に、ここで装われた「謙虚さ」が、「傲慢さ」の空蝉に過ぎないのだとすれば。批判されないまま内に秘められた正義は、決して修正されることがないだろう。そのためにこそ、「謙虚さ」を装ったのであるから。

 もう一つ言えば、そのうち、装われた「謙虚さ」が正義の位置に上がってくる。しかし、それは正義として主張されたものという自覚はない。あるいは、自覚がないことが装われている。これは、最初には避けようとしたはずの、自らの正義の絶対化の亜種である。


 正義に対するアイロニカルな態度は、せいぜい、この程度のもんだ。そんな風に考えてからは、「謙虚さ」だとか、「慎重さ」だとか、そういうものをアプリオリによきものと見なすことはやめた。具体的に「謙虚さ」や「慎重さ」が果たしている具体的な役割を通じてのみ、評価することにした。思うに、「謙虚さ」や「慎重さ」はありふれている。ありあまるほど、人々は「謙虚」だし、「慎重」だ。しかし、それは何のための「謙虚さ」であり「慎重さ」であるかは、かなり疑問がある。そんなことより、もう少し勇気を、蛮勇を奮い起こすことの方が、多くの場面で必要とされているように思う。


 結論。俗流ポストモダンは大嫌い。

*1:もちろん、そのときの変化が、正しい方向への変化だったと確証するものはない。ただ、そのような意味での不確実性ならば、どんなことについてもあるのだから、ここでは無視することにする。