モジモジ君のブログ。みたいな。

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不毛さについて

 ある種の議論を「不毛だ」とか、「ダメな議論」だとか、言いたがる人は多い。「そのやり取りは失敗だ」とか、ね。もちろん、やり取りをするからには、目標を定めるし、その目標に照らして、そのやり取りは失敗だった、ということは言える。というより、そういうことは考えておくべきだ。たとえば、学生に授業で話をするならば、何を理解させたいかを整理し、それがどのくらい理解されたかということを評価し、その基準に照らして成功だったか失敗だったかは、その都度反省された方がいい。そんな風に周到に準備されないイレギュラーなやり取りにおいても、相手を説得するとか、少しでも歩み寄るとか、一致点を一つでも見出すとか、そういう目標や基準はどこかで考えられるべきだし、その上での反省はあっていいし、あるべきだ。


 しかし、そういう目標をどこかに固定したわけではないところでなされる「不毛だ」という断罪は、便宜的に定められた目標を「すべて」と取り違えてしまっている点で、救いようがないほど不毛だ。たとえば、その当時には失敗だと思われたやり取りが、十数年も経ってから、その本当の意味が理解される、ということがある。たとえば、不毛なやり取りに終始する相手の存在を発見するというところから、不毛でない思考が生まれることはあるのであり、それゆえに不毛なやり取りは根源的に不毛であるとは言い得ない。

 体験的に思うことはある。一つ。不毛なやり取りから学びうることは、建設的だといわれるようなやり取りの中では大抵発見できない。一つ。そのようなところから学びえたことからすれば、一体僕たちが何を建設的だと考えているのかは一層反省的に考え直されるべきことだと思えるようになる。


 言うまでもなく、人生は短く、時間は限られているから、すべての可能なやり取りを実際に行なうことはできない。取捨選択はする。できるだけ不毛ではないやり取りを、できるだけ建設的なやり取りを、できるだけ目標達成につながるやり取りを、ということを考えないではいられないし、考えるべきだ。しかし、それは基準のすべてではない。根源的なところで、そのやり取りは不毛ではありえないことは確認されていい。その人とやり取りを行なえば、不毛なやり取りにならざるをえない、そのような相手が存在している。そのことを知ることは、そこから考えはじめることは、決して不毛ではなく、むしろ大事な問いである。

 どんなやり取りができるか、そこから何を発見できるか、それは事前に予想できないことの方が多い。本当に人生を揺るがすような(そこまでは行かなくても中発見と言えるような大事な)気づきは、そういう事前に予想することはできないことの方にこそ多くある。事前に予想できるなどというのは、よほど鈍いのだろうと、個人的には思う。──もちろん、それは僕の個人的な体験に過ぎないが。しかし、それを言うなら、誰でも同じことだろうと思われる。


 こうしたことは、体験その他の証拠によって正当化されることではないのだ。むしろ、私たちは、何を前提して生きて行くのか、という選択の問題である。不毛なやり取りとそうでないやり取りを分けることができるという前提を取るのか、そんなことはできない、わからない、という前提を取るのか。私たちは自由だ。好きな方を選べ。そういう問題なのだろう。