モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

道徳的詐術とは何か

 発端。「「本当は、できるでしょう?」の原初的風景」@G★RDIASより。

たとえば、私がコンビニで200円のおやつを買おうとするという状況を想定する。/目の前に、募金箱がある。そこには「アフガニスタンの人達は、4人家族で200円あれば1日暮らしていける」と書かれてある。/それでも、その文字が目に入りながらも、私はおやつを買うとする。/このときに、私が「募金できない」と言うのは端的に誤っている、ということである。ただ単に私は「募金しない」だけである。/仮に、その200円がないために、アフガニスタンの家族がその1日を生き延びられず、死んだとしよう。すると、事実として「間接的ではあろうが、私は人殺しである」と言えよう。/私は、そういうことを「まずは」嘘をつつみ隠すことなく言おう、と提起している。/これは、「正論の倫理学」なら主張するであろう、「その200円を募金すべきだ」という主張とは全く違う。/ただ、私は「200円を募金「できなかった」のではなく、「しなかったのだ」」というふうに言うべきだということなのである。それは、「おやつを買ったからあの人たちが死んだ」ということを、それがもし事実だとすれば受け入れなければならないことを、論理的には要請する。もちろん、「どのように」受け入れるべきかは議論されるべきだと思うが、事実を隠ぺいすることは許されないであろう。*1

 これに対するuumin3さんの応答。

 「道徳的詐術」、「昨日の補遺」、「詐術2」、「軽い「他者」」@以上、uumin3の日記より。

 コメント欄も含めて全部読んでみたのだけど、x0000000000さんの主張が道徳的詐術である、という論証はどこにもなかった*2。以下、x0000000000さんの主張が道徳的詐術ではないことを述べ、道徳的詐術が本当にはどこにあるのか、を述べる。

問いに直面する責任、答えを出す責任

  • 「持っている資源を渡さない」ことによって死なせることがない。──(A)
  • 「持っている資源を渡さない」ことによって死なせることがある。──(B)

 以上は事実問題。(A)は端的に間違い。(B)が正解。これを「間接的に人殺しである」と述べるとしても、それは多少感情のうずきを感じさせる表現かもしれないが、あくまで事実の問題であり、ここに何の詐術もない。選択肢があり、そこから具体的な選択肢を選ぶ以上、そこには問いがある。問いの向こう側に、選択の結果を被る他者の顔が見える。ここでの他者の顔は、そこに見るか見ないか、というレベルで選択可能だとしても、そこに顔が「ある」ということは徹頭徹尾事実問題である。

 ここから先に進むときに分けて考えなければならないことは、(α)問いに直面する責任と、(β)問いに答える責任である。まず、問いに直面する、という事実はある。そして、問いに直面していることを自覚すべきだ、ということをx0000000000氏は言っている。ここからが規範的な主張である。「直面しなくていい」、「直面すべきである」、どちらかが選べるとして、x0000000000氏は「すべき」と述べる。これに反対しても構わないことは構わないわけだが、事実に即していないのは「直面しない」ことである。「詐術が必要だ」という言い方なら、わかる(賛成はしないが)。しかし、x0000000000氏の主張の方を「詐術だ」と述べるのは、詐術という言葉の通常の意味からしておかしい。──次に、問いに直面するとして、では、どのように答えるのか。実のところ、どのように答えても、答えにはならない。200円募金するとして、では、その次の日はどうするのか。別の同じような家族はどうするのか。400円、600円と募金を増やしてみてもキリはない。結局答えはでない。

 だから、二つの態度がありえる。「問いに直面し、答えを出せない」。「問いに直面せず、答えを出せない」。x0000000000さんが述べているのは、前者を取るべきだ、という話であろう。僕はこれに賛成する。これに対して、答えを出さないなら同じではないか、と言うかもしれない。しかし、僕の考えるところでは、これこそが「正論の倫理学」である。「答えを出さないなら問う意味はない」という考えこそが、「正論の倫理学」である。そして、これこそが道徳的詐術である。答えを出せない問いを問う意味はあるからである。つまり、答えが出ない問いは、問いそのものを解消すればよいのだ。そもそも、僕の手元の200円とアフガニスタンのどこかのある家族(それ以外のすべての人々)をこのような形でつないでしまっている世界のあり方そのものを変えねばならない、と考える。世界への、自分なりのコミットを自分で選択することに向かわせることになる。募金をしないとして、では「何を」するの?という問いに自分を開くことである。これはつまり、正しさを、実現された正しさの水準(静学的正義?)ではなく、正しさに向けた運動の水準(動学的正義?)で問うことである*3

オルグの常套句におけるゴマカシ、とその同類

 ついでになるが、社会運動へのオルグに対する嫌悪感について。オルグの常套句とは、「(1)世界に対して責任があるから、(2)今、私が提示するこの運動に関わりなさい、(3)さもなければ世界の不正義に加担することになる」というものである。ここには一つの真実と二つのゴマカシがある。(1)が真実である。これはx0000000000さんが述べたことである。二つのゴマカシとは、(2)と(3)である。
 まず、(2)について。つまり、世界にコミットするとして、この糾弾者の言う運動でなければならない理由はない。人の生存と尊厳に関わる何らかの運動をせよとはいえるにせよ、どの運動をせよ、とはいえない。すべてにコミットするのは不可能だ(この不可能性は言える)。だから、自分の中での優先順位や決断やそれまでの関わりなどから勘案して、コミットする何かを自分で選ぶ。もちろん、ここでは「なんにもコミットしない」という選択そのものは否定されている。
 次に、(3)がゴマカシである。仮に何らかの問題にコミットするとしても、どこかで死に行く人が放置されている限りいつでも不十分なのであり、その意味で、コミットしたからといって不正義を免れるわけではない。ただ、(3)は静学的正義の位相で、しかも実現されていないはずの正義を成り立っているかのように述べている。これは嘘である。
 ただし、(2)と(3)がゴマカシであるという同じ理由によって、「コミットをしなくてよい」、「不正義に加担していない」という主張も同時にゴマカシであることが見て取れるはずである。オルグの常套句と同様に、その批判者にこそが道徳的詐術を共有しているのである。


※ ついでに本の紹介。「答えを出せないなら、問いそのものを解消する」とは、問いを「創造的に解く」ということである。次の本を参照のこと。>昔に書いた読書記録

ここからはじまる倫理

ここからはじまる倫理

【追記2007/04/27】
 次のような記事を発見。
 募金箱の背景にあるもの@hituziのブログ 無料体験コース

 hituzi氏が言う通りのことであり、ここに付け加えるべきことはない。しかし、これがx0000000000氏への批判として書かれていること、x0000000000がこれを「真っ当な批判」と呼んでいることは僕にはちょっと理解できない。僕は最初からx0000000000氏がこういうことを述べているのだ、と理解していたのだけど。

*1:改行を省きました。

*2:本記事コメント欄にて。uumin3さんが「論証はある」と述べたので、「それは論証になってません」と応答した。

*3:以上は、「姥捨山問題と僕」で述べたこととも重なる。