モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

愚民とは、説明を要求しない人のことである

愚民が愚民でなくなる可能性のために」のブックマークコメントとして、t-keiさんという方が「「愚民」や「民主主義の終焉」という表現に対する、良心的な素振りをした批判や、冷笑が蔓延する気配がある」と書かれている。これは僕の述べたかったことを極めて的確に要約したものだ。僕は、人々の今のありようを所与として、その中での知識人や政治家の行動を変数としてよりよい世の中を考える、というフレームワーク自体に疑問を抱く。人々の今のありようそのものが変数であるようなフレームワークを考えるべきだし、そうであるならば、今回の選挙における人々の選択をその内容において批判するという作業がどうしても必要である。それはその選択の愚かさをきちんと説明する作業に当然なる。この点について多くの人が及び腰であるように見える。まぁ、及び腰になるのも分からないではないけど。しかし、それはやはり必要なことだ。それと併せて、そもそも選んだ主権者の責任を問うという言説を、頭から封じ込めようとする言説もチラホラ見える。*1だから、なおさら黙っているわけにはいかないと強く感じたし、今も感じている。

さらに、次の二つのエントリにも強い共感を覚えた。いずれも、t-keiさんのブックマークで発見したエントリ。僕の述べたかったことを、より繊細な記述でより深く掘り下げて考えてくれている。
選挙結果の感想」@研幾堂の日記
意見を作る能力を畏敬せよ」@研幾堂の日記


「愚民」という表現が適切だったかどうかは分からないが(少なくとも、僕の気分にはピッタリであったのだが)、いずれにせよ、僕が「愚民」という言葉で何を意味していたのかは掘り下げて説明する必要はあるだろう。それを試みる。


まず、政権が何かをすることによって、それがすぐさま誰かの生活の根本を揺るがすことがあるし、私たちの政権選択は、そのようなことを引き起こす蓋然性があるということである。ストレート人言えば、私たちの選択が人を殺す可能性である。まず、その選択の重みを知らない人、気づかない振りをしている人、そのような人を僕は「愚民」と呼ぶ。これは事実の問題であって、きちんと説明された異論は成り立ち得ない、と考えている。

次に考えることは、人間は間違いえる、という単純な事実に起因する。間違いえる。間違いえるが、しかし重大な選択をする。このような状況を考えるならば、その重い責任に対して誠実であるということは、自らが間違ったかどうかを自らのきちんと判断しようとする姿勢抜きに考えることはできない。投票の後に関心を失い、政権が何を為すとしても、それらが引き起こすことに関心を持たず、ゆえに自らが間違ったのか正しかったのかを検証する意思を持たない者を、やはり僕は「愚民」と呼ぶ。

さらに、間違いうる主張のどれかを選ばねばならず、しかもその責任は重大である。そのような中で、できるだけ間違わないように選択しようと思うならば、まず求めなければならないことは「説明」である。なぜそのようになるのか。なぜその主張が正しいのか。それがなければ、まずその主張を支持してよいかどうかを決心することはできない。ゆえに、説明を求めない者は、一体何を根拠に支持を決めたのかまったく不明であるという意味で、僕はそのような人たちを「愚民」と呼ぶ。

以上示した要件は、基本的にはその人の知識の量や能力にはあまり関係がないことである。選択の重みというのは、その気があれば誰でもが考慮に入れることができるものである。自らの選択の正しさを事後的に検証しようという態度も、能力の問題であるよりは意思の問題である。説明というのも、理解するのはなかなか難しいだろう。しかし、それでも、説明を要求する姿勢くらいは、どんな人でも持つことができる。これもやはり意思の問題なのだ。そして、以上示した要件は、誰に投票したかに依存しない、一般的な要件である。その意味で、どの政党の、どの候補者の支持者の中にも、「愚民」と呼びうる人はいるだろう、と僕は考えている。


その上で、僕が今回の小泉自民党を支持した人々を、他の政治的選択をした人と区別して特に強く「愚民」呼ばわりするのは、上記要件に加えて僕自身の判断が付け加わっている。選択の重みを知り、選択が正しかったかどうかを政権の為すことを見つめながら誠実に検討してきた人は、今回の選挙で小泉自民党を選ぶはずがないからである。そのように考える理由は、次の二つのエントリで述べた:「小泉政治を勝手に総括」、「与野党比較

では逆に、彼を支持する理由を考えてみる。それは、彼の主張が「分かりやすい」であるとか、彼の態度が「果断」で「歯切れよい」であるとか、そのような理由しか僕には発見しえない。「分かりやすい」という話。まず、「分かりやすい」と言われたものは一体なんだったのか。小泉首相の演説を聴いていても、「優生民営化は改革の本丸です」という、彼の認識を直接述べているだけであり、そのように考える理由などただの一度も述べなかった。説明などしておらず、ただ連呼しただけである。分かりやすいのではない。分かるべき内容を何一つ提示しなかったから、「分からなかった」という感覚が残らなかっただけである。これを「分かりやすい」と述べるのは嘘である。何も説明していないのであるから。*2もちろん、果断さや歯切れよさを理由にする人々も、説明を求めないという点でまったく同じである。

こうしたことを考えるならば、小泉を支持した人たちが、説明を求めもしなかったし、説明がないことを疑問にも思わなかったし、そもそも選ぶ理由として説明が必要であると考えもしなかったのは明らかなのである。僕が小泉自民党支持者を、他のいかなる政治的態度を表明した人たちとも区別して、特に愚民であると名指しで攻撃するのは、それゆえ、である。小泉は説明をしなかった。拙い説明さえしなかった。しかし、それでも彼に支持を与えた。「愚民」と呼ぶべき人々がいるとすれば、まさにこのように行動する人たちのことだろうと僕は思う。それ以外の党や人々を支持した人たちの中にも、「愚民」はいただろう。しかし、徹底して説明不在の勢力は小泉自民党だけであり、他は拙いながらもいろいろ批判すべき点はありながらも、それでも説明しようという姿勢だけは見せていた。つまり、他の態度を取る人たちの中には愚民とそうでない人が混じっているように見えるのだが、小泉自民党支持者の中には、愚民以外の何者も見出しえないのだ。違うというならば、小泉が一体何を語り、その語りの何を説明として受け取ったのか、小泉がした「説明」というものを誰か教えてくれないだろうか。


それにしても、今回見事に嵌った小泉の選挙戦略というのは「分からなかった」という感覚が残りうる事柄は一切説明しないという戦略であり、その態度たるや、人々を根源的に愚民として扱っていることに他ならないのである。それに腹も立たずに嬉々として支持する人々を見るに、愚民と呼ぶ以外にどのように呼べばいいのか、僕には分からない。

*1:たとえば「売れない画家」だとか「売れない芸人」とか言うレトリックだ。

*2:僕のこの主張自体、反証可能である。小泉氏がきちんと中身を説明したのであるなら、その説明とやらを引用して示してくれればいい。示されれば、僕は自分の見解を撤回しよう。