モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

法の外に正義を構想する

 稲葉先生(あえて)には悪いなぁと思いつつ。


 法廷と手続的正義・続々@おおやにき
 http://alicia.zive.net/weblog/t-ohya/000150.html


で答え残したところ。「正義と自由」と題されたの一節について。


これについて言うと、自由に基礎となる物質的条件が必要であり、それを保障することは「自由の条件」であるから同意を必要としないということには、ほぼ賛成しても良い。ただまあ、「人間存在の基礎に関わる条件」を保障するというときの「人間」の範囲はどうやって決めたのかね。これは2003年の法理学研究会報告で扱った問題で、まだ論文にしていないので恐縮なのだが、結局それは「同意」に基礎付けるしかないというのが私の考えである。

 人間の範囲について、仮に何らかの範囲を定めたとする。そのとき、人間ではないとされた何者かが私たちにとって望ましくない何らかの行動をとったとき、それを非難する論理はいかにして可能か。念を押しておくと、「法律が実際にどのように決められているか」ということとは関係ナシに。正義が正義であることの根拠が、それを主張する者の腕力ではなく、その主張されている正義の論理性にあるならば、私たちは人間ではないとされた人たちが暴力を含むあらゆる行動を取ることについて非難する資格を私たちは失う。

 だとすると、仮に私たちがテロリズムというものをなくすべきだと考えるならば、それが不要であるようなルールを採用しなければならない。私たちは「人間として扱われることを要求するすべての存在を」人間として認めなければならない。*1もちろん、何に同意するかは自由であるし、これに同意しないことも自由である。しかし、私たちは同意した内容の論理的帰結を「論理的には」受け入れなければならない。私たちが、誰かを人間ではない何かであるとし、彼が暴力に訴えるなら、私たちはその暴力の結果を嘆き悲しむことは当然にあるとしても、それを不正として非難することは(大抵そのように非難されるけれども)、論理的には間違っていると言わなければならない。

 ところで、人間が自由であるために最低限の物質的な条件が必要である。これは動かせない事実である。とすると、その人が人間であるということを認めるならば、そのことは「その人に、その人が自由であるための最低限の物質的条件を保障しなければならない」ことまで含むのでなければ意味がない。だから、相手に向かって「あなたを人間と認めていますよ」といいながら、しかし彼が生きるための条件が保障されていないならば、私たちはウソを言っていることになるのであって、彼が「人間として認められていない」と感じ、暴力を含むあらゆる手段に訴えたときに、彼を非難する論理的資格はやはり失われているというべきだろう。「相手を人間として認める」という約束は、文言の上だけで実現されることはありえず、物質的な条件が整えられることを伴わねばならない。

 テロリズムとの同居を拒否することを前提するならば、そこから論理的に導けることによってある程度の正義の基準を導くことができる。決められた法から演繹できることがあり、それが作り上げる現実があり、その現実の中に生きる条件が保障されていない誰かがいるならば、その人の生きている客観的条件を根拠として「不正義である」と言わねばならない。もちろん、前提に同意しないならそれまでではあるのだが、同意しない人はその論理的帰結としてテロリズムとの同居を諦めて受け入れてくれ、と言う他はない。これは「客観的な」、あるいは少なくとも「法に対して外在する」正義を想定することであるが、それをナイーブであると言うなら言えばいいと思う。少なくとも、手続的正統性の中に撤退してしまうよりはマシな道だと個人的には思う。


(いろいろツッコミどころはあるだろうけど、それをまったく想定していないわけでもなく、想定できることについては答えの見通しをもっていないわけでもなく、さりとて想定できていないツッコミどころもあるだろうとも思われるし、何にせよ具体的な批判を寄せてくださる場合には歓迎いたします。)

*1:ただし、これは最小限の範囲。これより広い範囲を人間として認める可能性を否定しない。たとえば、重度の知的障害者などには、あるいは絶望しきっている人などは、「人間として扱われることを要求する」ことがそもそもできない人たちもいるわけだが、この人たちが人間として認められるためには、「本人が人間として扱われることを要求する」以外の何か別の基準が必要になる。それを考えるのはそんなに難しいことではないとも思うけど。