年末年始に、次の本を読みました。
ウォーク(意識高い系)資本主義とは
ウォーク(woke)とは「目覚めている」、転じて「不正義から目を背けない」ということ。社会正義を実践しようとする人々のあり方を指す言葉として、アメリカの公民権運動の頃から使われ始めたらしい。
こうした人々が増えてくると、企業もその動向を無視できなくなる。たとえば、社会正義に反するとみなされた企業に対しては商品や投資のボイコット運動が組織されたりする。そのようなわけで、「ウォークな企業」も近年増加しつつある。ウォーク資本主義とは、このような企業が登場する段階に到達した資本主義のことを指す。
ウォーク資本主義に対する三つの態度
こうした現状についての反応は、大きく二つに分けられる。一つは、右派の反応で「余計なことするな」というものだ。理由は「株主の利益実現に専念しろ」「私的な価値観のために企業資源を浪費するな」など様々だが、突き詰めれば、差別する自由を守れ、ということにすぎない。というのも、企業が右派的な価値にコミットするときには文句は出ないのだから。いま一つの反応は、「ウォークな企業、結構なことじゃないか」と歓迎する左派のそれだ。こちらもわかりやすい話だろう。
この構図を承知している人からすると、この本のタイトルはかなりヤバめに見える。右派的な、ということはつまり反人権の、反フェミニズムの、反ポリコレの等々、様々な意味で「論外」な立場からのウォーク批判ではないか、と思うからだ。もしそうであるなら、本書のタイトルは「民主主義」ではなく「資本主義を破壊する」になっていただろう。
この本の立場は、先の二つのどちらの立場でもない。第三の立場だ。すなわち、「ウォークな企業、結構なことだが、利潤動機に従うという企業の本質は何にも変わってないぞ、騙されるな」というものだ。
本書は、ウォークな体裁を取り繕う企業が決して正義に反する振る舞いをやめていないことを、豊富な実例によって示す。たとえば、気候変動や性的指向の多様性へのコミットに拠出した何倍もの資金を、租税回避によって節約する。あるいは、社会的文化的問題で正義にコミットする一方で、貧困や格差などの問題には冷淡である、というような。結局のところ、社会的なラディカリズムへの(ささやかな)コミットと引き換えに、経済的なラディカリズムを回避する権利を購入している、というような格好になる。「だから、騙されるな」というわけだ。
結論
結論を要約すると次のようになるだろうか。①企業は、利益拡大に資するときそしてそのときにのみ、社会正義にコミットする。②それゆえ、社会正義を実現するのは、市民運動など、あくまで草の根の民主主義の力であって、これをウォークな企業の力で代替することは不可能である。③ウォークな企業のもたらす混乱と油断は、むしろそうした草の根民主主義を破壊する方向に作用する。
特に、③について。たとえば、LGBTQ +の問題へのコミットと引き換えに労働組合への弾圧や賃金抑制を続けたりする企業に対して、普遍的正義の見地から反対して団結できるかどうかが問われている。要するに、シングルイシュー運動のようなものは、ウォーク資本主義に簡単に籠絡されてしまう、ということでもある。
いずれにせよ、こうしたウォークな企業たちは、社会全体がバックラッシュにさらされれば容易に手のひらを返し、いくらでも差別や抑圧に加担していくだろう。依然として、社会を良くしようとする一人ひとりの市民の努力は重要だ。ゆめゆめ油断してはならない。