モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

排外主義それ自体が暴力です

  そして、動画につけられたブックマーク*1


 ブックマーク・コメントを見ると、「思想はどうあれ、暴力はよくない」的な主張が散見されるが、これはどういうことか。在特会の排外主義プラカード&シュプレヒコールは、在日外国人にとっては直接の恐怖だ。常野氏に対してふるわれた暴力に勝るとも劣らない暴力、どっちかだけ批判とかありえない。

 元々、薄く広がる無自覚な排外主義は日本社会の隅々にある。そういう排外主義的な主張に接しても「事を荒立てない」「大人の」態度が当然とされる。その一方で、近年の右傾化を経て、本音ダダ漏れ化が進行、春先のカルデロンのり子さんの問題が持ち上がった頃、「当事者の生活空間に押し寄せて排外主義の主張を行う」という特異なデモが企画されたあたりから、具体的に目に見える形を取り始めた。それから、今回の事件。排外主義者のデモに対して「排外主義反対」の紙切れ(即席プラカード)を掲げた男性に対する直接的暴力となってあらわれた。短期間の間に着実に成長している。遂にここまで来たか、とは思った。

 ふるわれた物理的暴力と彼らの排外主義の主張はつながっている。そして、それらは私たちの社会の無関心故に生き生きと成長しつつあるのであり、その意味で、私たちの社会のありようとつながっている。それは当然、その社会を構成する、私たち一人一人のありようとつながっている。hokusyu氏やtoled氏その他が主張し続けているように、問題の根っこは排外主義であって、同時に、排外主義に対する寛容だ。


 多様な意見を尊重しましょう。結構なことですね。しかし、ある具体的な誰かを排除しようとするさまざまな思想があり、そんなことをしてはならないという(やはりさまざまな)思想があり、その両者の間でどんな調停が可能だというのか。そもそも誰かを排除しようとする立場に対しては「認めない」以外のどんな態度が可能だというのだろうか。それって、社会の基礎となるべき社会契約を根源的に否定する発想なんですけど。ゆえに、排外主義に対しては、即座に「論外」と切り捨てる以外の対応はありえず、多様な意見なるものは、その後の話としてしかありえないと思うのだが。そうではない、というのならば、排外主義者が排外主義者でなくなること以外に、どんな調停がありえるのか、示して欲しいものだ。


 他の記事で既に済んでいることしか書いてないような気もするけど、この件については、自分の立場としてきちんと表明しておきたいので、アップしておく。排外主義者の暴力にも「ここまで来たか」と呆れたけれど、ここまで来ても「思想はどうあれ」的中立幻想から出てこれないことにも呆れる。

*1:追記:これは紛れもなくリンチなんだけど、それを言うならば、カルデロン一家に対して行われた在特会のデモは、リンチそのものだった。だから、これは初めてのリンチではない。まずは当事者へのリンチがあって、今回、そのリンチを非難する人へのリンチが行われたのだ。