モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

ラディカル・フェミニズムから受け取れること

 少し違う角度から。


 当たり前のことだけど、陵辱表現どころか、性表現を愛好する人の自由と、一般的な性表現に対してさえ緊張を強いられる人が安心して外を歩く自由とは、両立しない。だから、どっちかを踏みにじるしかない。絶対に。論理的に。こんなことはわかりきった話。あまり認めたくない話だから無視されるわけだけど、ここから目をそらしても始まらんよ。

 id:atawi氏が「あなたが「街を歩くことにさえ緊張を強いられる人」を考えているのと同じように、反対側の悲痛な声を聞いてください。無意識に獲得して自我に根付いた肯定されない欲望と公序良俗の間で悶えている「人間」の叫びを」と書いてて、それはまったくその通り。聞いてますけど。そして、それらは両立しない。両立しないことを踏まえて、あなただったら何を言いますか?


 まずは、表現の自由は、他者の自由の制約の上にあるという、当たり前のことを思い出すべき。たとえば、「表現の自由などいらないから、表現からの自由をくれ」と言う人だっているでしょう。その中で、それを我慢していただいた上で成り立つのが「表現の自由」。およそ表現である以上、かならず誰かを傷つけるリスクがある。性的な表現はとりわけデリケート。そのことを承知の上で、「表現の自由」をデフォとする、というのが、我々の社会のルール。それはいわば「特権」としてしか成立しない。

 アンチ・ポルノのラディカル・フェミニストの書く物に同意はしなくても圧倒されざるをえない、その一つの理由は、「私たちは(彼女たちは)ずっと我慢してきた」という、いわば怨念だと思ってる。まぁ、これは僕の解釈ですが。でも、「表現の自由なんていらないから、表現からの自由をくれ」といわれたら、それになんて答えるよ。「バカ」とだけ返してそれで済む、と思っている輩はいっぱいいるよね。だったら、一度、立場入れ替えてみたらいいんじゃないかね。ホントに。


 表現の自由を守るとは、まずは「表現からの自由」を我慢してもらった上で実現される権利を守る、ということ。現代社会において、また、歴史上いつの社会においても、現にある権利は特権としてしか与えられていない。そこで「特権を返上せよ」とは言わないなら、代わりに言うべきことがある。すべての人に等しい自由を。そして、それをできるだけ大きく。そこへ向けて歩き出す責任の一端ではあれ担う気があるのかないのか、という話。

 伝統的価値観がたくさんの人を抑圧したのと同じように、リベラルだってたくさんの人を抑圧している。ただし、伝統的価値観を退けたときと同じように、リベラルを退ければよい、という話ではないのは大抵の人はわかってる。だから、いろんな表現に傷ついても「規制を求めない」という人は多い。しかし、そこに胡座をかいた瞬間に、すべての可能性は閉ざされる。その瞬間に、特権は特権のままに終わることになる。ぶちこわせ、と言う奴が出てきても仕方ないわな。

 つーか、現状特権でしかないんだから、制約を受けている側から「ぶちこわせ」の声はいつでもいくらでも出てくるでしょうよ。仮に、自由の拡大のための努力がなされている場合であっても。そこは押さえつけつつ「言論の自由」を守るわけです、守る場合には。言論の自由こそが、自由の拡大のための拠点となっている場合には、それを守ることにも意味はあるかもしれません。しかし、そうではないときには、その限りではない、と言うことはありうるわけです。やっぱり。