読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

ある運動家への手紙

 一応、言っておかないと気持ち悪いので。
 名宛人を伏せたのは、わかる人がわかればいいことで、名を伏せられたら意味がわからないという人には気にしないでいて欲しいという意思表示です*1。できれば、誰もブックマークせず、誰もスターをつけないでください。


(1) 他者を公の場で非難するのであれば、一般的には、相応の説明責任というものがある。「オレは事情を知っている」という表明は、なんの根拠にもならない。その程度の根拠なら、なんの根拠もない誹謗中傷を行っている人間でも言う。だから、少なくともある程度は、自らの非難の根拠を示す責任を引き受けなければならない。
(2) また、誰かを非難する人は、自分の非難が単なる誹謗中傷に過ぎないのではないかという恐れを、持たなければならない。主観的には気づかずにそういうことをしでかしてしまう、そんな危険は誰にでもあるからだ。この危険を回避する数少ない方法の一つは、自らの非難の根拠をできるだけ詳らかにすることだ。
(3) 誰かの非難を聞くときには、その根拠を求める。非難に同意したり、(そこまではせずとも)黙認したりすることで加担したくないからだ。自らが非難するときには、その根拠を示す努力をする。やはり、なにかよくないものへの加担になるような非難をしたくないからだ。逆に言えば、これらのことを軽んじるということは、そういう危険性に対する慎重さを欠いている、ということだと僕は考える。


(4) 村上春樹へのオープンレターなどでの要請について、「村上春樹にも事情がありうる」ということに、君は言及した。この言及だけでなく、他にも幾つか同様の言及をしていた。僕はそのことに、少しばかり感動したのだ。なぜなら、そういう慎重さを持ち合わせた人だとはまったく思っていなかったから。そのとおり、誰にでも事情はある。著名人だからといって、それをまったく無視してよいわけではない。なにかを要請する場合には、それを少なくともある程度は棚上げにすることになるが、可能な限りの慎重さを持つべきだ。そう思う。
(5) しかし、このような印象は、どうやら勘違いであったらしい。君は、たとえば君がネットに晒している人に対しては、その事情なるものの可能性を考えようとはしていないらしい。その他、君が名指しで批判したさまざまな人たちについても、その人たちの個人的事情を念頭に置くつもりはないらしい(もっとも、個人的事情を念頭に置いたかどうか以前に、自らの非難の根拠をそもそも示そうとはしなかった、という点が第一義的には問題になるのだが)。すなわち、君は共感可能な人に対してしか、想像力を行使していない。
(6) 思うに、想像力が大事というのは、自らが共感できない相手に対する想像力のことだろうと思う。自らが共感できるような相手に対して想像力をはたらかせるのは、ある意味であたりまえのことだ。そうではなく、共感できない相手に対して想像力を働かせ、そこに共感を生み出すこと。これが想像力の使用法として求められていることである。都合のいいときだけ働かせているなら、それはただのダブスタだ。


(7) ちなみに、僕は名指しで批判すること自体を認めないのではない。たとえば、解雇された非正規労働者が、その解雇に責任ある人を名指しで批判するのは、当然のことでもあるだろう。その支援者も、基本的には同じ認識に沿うということも、支援をする上では必要なことであったりする。しかし、それは、仮にその主張に嘘があった場合に誰に責任があるのかがハッキリしており、しかも、名指ししている相手に対して直接の交渉を求めていることが重要である。直接交渉を求めているならば、その交渉の中で、申し開きの機会もあるはずだからだ。もちろん、僕の知るケースにおいては、申し開きなどできっこないと思う。しかし、申し開きの段階を置く、ということは、形式的に重要であり、形式的なことは極めて重要なことである。本人との交渉とは無関係なところで悪評を垂れ流すのとは全然別のことだ。
(8) また、たとえば、明らかな不当逮捕で仲間を拉致された人々が、その実行犯の顔や名前を公開して非難するのも、僕はやむを得ないと思う。戦闘状態そのものの中にいるのだから、使える手段はなんでも使うだろう。ただし、こういう手法が暴力的であるというのは、紛れもない事実である。暴力的手法だからしてはならない、というのではない。少なくとも、その行使に慎重さは伴うべきである。そして、僕の知るそのケースについては、十分以上の慎重さが払われているように思う。不当逮捕の瞬間のみならず、その直前の打ち合わせの様子までもが、カメラに収められ、ウェブで閲覧できるようになっていた。そういうものがない場合でも、もちろん、非難は正当でありうる。その場合には、映像ではなくとも、なんらかの正当性を示そうと、やはり努力するだろう。それさえない場合には、正当性を示すことのできない事情を言うだろう。しかし、君がやったことは、そういうこととも異なっている。


(9) 総じて言うならば、君には、自らがふるう暴力への感度が足りないように、僕は思う。自らがまちがいうる、ということへの恐れがない。もう一つ、仮にまったく正しいという場合でも、それが暴力の行使であるならば、それは暴力として踏まえられておくべきことである。本来行使しないで済ませられればそれに越したことはないものとして、位置づけられるべきものである。しかし、そのような様子も、どうやらない。
(10) もう少し話を続けよう。自分では完璧にリスクをコントロールしている。絶対大丈夫な範囲でしか力を行使していない。そのように主観的には思っているらしい。しかし、そんなことを誰が保証できるのか。力の行使はいつでも賭けであり、予想外の出来事を引き起こしうる。ついでに言えば、力の不行使も、いつでも賭けであるけれども、いずれにせよ、賭けでしかない。そこに、「完璧な計算」なる発想が入り込む余地はない。そのような発想が、それ自体、迂闊さでしかない。
(11) 自分に降りかかるリスクの計算について、そのような過信をしているだけなら、別にかまわない。痛々しいとは思うが、計算違いのしっぺ返しを受けるのは自分自身だ。それを受けて、自分で考えればいい。しかし、他者に行使する力についても、「完璧な計算」なる過信を判断の前提にしているならば、それはとんでもない話だ。もちろん、「完璧な計算」などできないから、何もするなと言うのではない。繰り替えすが、力の不行使もまた、賭けに過ぎないのだから、いずれにせよ賭けは賭けだ。ここで批判されているのは、「完璧な計算」なる嘘、賭けに過ぎないことを忘却するためにつかれる嘘である。事後的にであれ、計算違いであった可能性を考え続けなければならない。思考を終わらせるためにつかれる嘘には、抵抗しなければならない。


(12) この嘘は、どこかで自覚されてもいる。介入しなければならないと考えて、介入してみたら、かえって当事者に困った事態を引き起こしてしまった。そんな経験は君にもあるだろう。そう聞いたことがあるように思う。その現場で介入することが答えにならないことがある、それは大事な認識である。ここで考えるべきは、より広い枠組みの中にその現場を位置づけなおし、そこでできることは何かを考えることである。考える限り、その他にできることはないように思える。いずれにせよ、その人の助けになるような介入であろうと意思することを、放棄してはならない。
(13) ところが、時々、正反対の方向に行く人がいる。つまり、その場で介入することが本人のためにならないのであるならば、その本人のためになるかどうかを度外視して介入するのだと。そこにある不正義に介入するのであって、誰を助けようとも思わない、と。まったくの本末転倒だろう。これを言い出したら、どんなことでも正当化できる。なにをやっても辻褄は合うから、反省することもない。歯止めの利かない最悪の冒険主義である。


(14) ある危険を回避するために、考えることの可能なあらゆることを考えたとしても、完全に危険を回避することはできない。同様に、何かを知る努力をしたとして、判断を正当化するに足る十分な知見を得たとは、誰にもいえない。のみならず、その努力や計算は、量的に測って、より多くの努力をしたなら、より多くの計算をしたなら、そちらこそが上だなどと言える根拠はない。僕が必死で考えてきたことよりも、そんなことなんにも考えたことがないように見える人の方が大事な何かを掴みうることなら、いくらでもある。
(15) このことを知らない人間は、自分より劣るとみなした人間から学ぶことができない。学生に学ぶことができない教師が持っているドグマがこういうものだ。患者に学ぶことができない医療者が持っているドグマがこういうものだ。「そんなことなんにも考えたことがないように見える人」が、本当になにも考えたことがないのかどうかを疑うことを知らない人は、そうなってしまう。誰がどんな風に生きてきたかなど、誰についてだって、誰も知らない。
(16) 同じことを、ひっくり返して繰り返しておく方がいいだろう。どんな教師も、どんな医療者も、赤ん坊として生まれたのであり、その間にいろいろなことを経験しながら、教師として、医療者としてそこにいる。そのことを忘れた学生や患者も、教師や医療者からなにかを学ぶことはできなくなっていくだろう。これは、教師や医療者を特権的に尊重する、ということではない。ただ、誤りうる同じような存在として、同じ位置に立って考えればいい。もちろん、教師や医療者の側が、自分たちの権力性に無自覚である場合には、学生や患者側でそう思ってもどうにもならないことはあるのだが、それはそれとして批判すればいい。
(17) なにかに対して「○○である」という認識に辿り着くこと。これが思考することの目的である。しかし、辿り着いたその瞬間から、「本当に○○であるのか?」という問いが立ち上げられねばならない。どんなにすぐれた人の知性も、それをやめた瞬間には、その瞬間において死んでいる。どんなに凡庸な知性も、確信と同時に懐疑を持てているときには、新たな認識を生み出す可能性に開かれているのである。自分の方が正しい認識に近いことの根拠を、示された認識自体によってではなく、その認識に辿り着くために集めた情報だとか費やした努力だとかに求めるようになったらおしまいだ。情報を集めたり思考を重ねたりすることが重要ではないのではない。そのような努力をどれほど重ねても、それはまちがいうる認識の一つでしかないことをわきまえておかねばならない。それをわきまえる必要のない特権的な認識など存在しない。


(18) 君にどれほどの運動経験があるのか知らない。ただ、そのふるまいや言動から見るに、自らの行使する力への反省を欠いている、という印象は以前からある。暴力を行使するときにも、行使しないときにも、それは賭けでしかありえないのだが、君の中では「完璧な計算」のもとになされた合理的選択として位置づけられるらしい。だが、それは嘘だ。そうかと思えば、賭けであることを自覚すると、今度は賭けであることに開き直り、いろんなことを考えなくていいことのように扱おうとする。たとえば、かえって当事者を傷つけてしまう可能性を度外視しようとする。どうしてそんなに頼りないのか。
(19) いずれにせよ、こういう不安定さへの耐性のないままの人と一緒に何かをするのは危険なので、少なくともその姿勢における変化が生じない限り、個人的な関わりは一切持たないことにする。そちらにも、関わりを持つつもりはないでしょうから、別に問題はないでしょうが。


(20) 最後に、いくらか瑣末なことについて述べておこう。自己欺瞞についても、可謬主義についても、敵対性についても、このブログをはじめた当初からのモチーフであるし、ずっと僕が考え、書き続けてきたことだ。最近言及していることにしても、過去記事の中から、関連する記事をいくつも提示することができる。プロパガンダにおける受け手の主体性の問題も、君がどこかで取り上げたことがあるのは記憶しているが、それは僕にとっても、郵政総選挙での小泉支持者を「愚民」と名指ししたときから取り上げている問題だ。
(21) このブログを始めて以降、僕の考え方の基本のところは、それほど変わっていない。そのような大きな事件は、このブログをはじめる以前の4、5年間に集中している。このブログでは、その頃に得たモチーフを掘り下げる作業をしている。もちろん、その作業は重要なものだったが、根っこからの方針転換を迫られるようなことは起こっていない。
(22) 君から受け取ったものは、大きく二つ。君の書いた分析のいくつかは、問題を掘り下げるのに役にたった。もう一つ、批判的思考と同時に、やはり、何かを構想して作り上げる思考を手放してはいけない、ということを、君を見ていて痛感した。それらの点については感謝する。しかし、まるで自分の手柄で僕が新たな認識に辿り着き、まったく異質なモノに変化しつつあるかのように書かれるのは、苦笑を禁じえない。その自意識が事実として流通するのは勘弁して欲しいので、こちら側の認識を、一応示しておく。これを踏まえて、君のたわごとの方を信じる人がいるとすれば、それはその人の自由=責任だ。

*1:個人的な付き合いのある方で気になるという方については、また別ですけども。