モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

政治的直接性からの逃走

 font-daさんの記事後半で紹介されている、ピンターについての書評記事より。

決して感情的にならず、あくまで劇の対話のように、ユーモアとアイロニーを手放さない。それがために、かえってBBCの愚挙が鮮明になってくるのだ。あくまで「表現」を通しているから、その研ぎ澄まされた言葉は読者のなかに通り一遍でない感情を巻きおこす。

劇作家らしく、ピンターの言葉は直接的でない。必ずユーモアとシニカルな目をたたえて、事態を見据えている。彼は政治的問題を「政治」で解決できないことを知っている。そこで前述した「知性」や「言葉」の問題が出てくるのだ。

 一読して違和感を持つのは、ここではピンターの主張に対してではなく、ピンターが「劇作家らしく」「直接的でない」表現を使っていることに対して共感が寄せられている点です。もちろん、ピンターの主張にも賛成なのでしょうけれど、その手つきは、どこかピントがずれている。たとえば、「感情的な」、「ユーモアやアイロニーなんかどこにもない」、「社会的に与えられた役割のイメージを逸脱した」、「どこか凡庸で、どこか研ぎ澄まされていない」、そういう表現だったらどうだと言うのでしょうか?なにか問題でも?そういう洗練されていない表現は、読者の中に、「通り一遍の感情しか引き起こさない」とでも言うのでしょうか?そんなわけはありません。

 つまり、ここにあるのは、政治的直接性への蔑視のようなものです。もちろん、そのような視線は、それこそ「直接的には」書かれていません。しかし、「彼は政治的問題を「政治」で解決できないことを知っている」などと書かれるのを読むとき、そんなわけないでしょう、と言わざるをえない。政治的問題は、政治でしか解決できません。


 一例だけ挙げておきましょう。日本において、従軍慰安婦問題は、一人の被害者女性の勇気ある告発によって、初めて社会的に取り組むべき問題として認知されたのです。文学のみならず、学術研究も含めたすべての「知」は、彼女の告発以前には、「政治的解決」はおろか、なんらの「政治的前進」さえ、もたらすことはできなかったのです。たった一人の孤独な「政治」が立ち上げられるまで、「知性」も「言葉」も、彼女に何をもたらすこともできなかった。だから、あの一件は、すべての知識人に対して、「「もはや黙っているべきではない」のではないか?」という問いを突きつけたのです。

 もちろん、その後に続く数多の学術研究や文学が、その問題における前進を後押ししてきました。それはそのとおりです。そのためにこそ、「知」は必要なものです。あるいは、告発に至る彼女の人生の中で、たとえば一篇の小説が、彼女の心を癒したかもしれません。そういう役割もまた、「知」にはあります。しかし、政治的直接性を蔑視するようになったら、「知性」も「言葉」もオシマイだと思います。あらゆる知的活動は、人の存在の寄り添うものであるからこそその存在意義を持つのであり、人の存在とは、すなわち、政治的直接性に他ならないからです。「政治的問題」は、「政治」でしか解決できません。「知性」や「言葉」は、そこで役割を果たすことができるけれども、「政治」の代わりになるものではないのです。


 どうも、ピンターのようなふるまいは、ピンターの主張そのものよりも、政治的直接性を感じさせない表現の方への共感を呼び起こしているように見えます。このような文脈において、政治的直接性を避けた「洗練された」表現を用いることは、単に洗練されている、というに留まらない複雑な問題を含んでいます。それは欺瞞的状況への共犯関係でありうる、ということです。

 洗練がいけない、というのではありません。ただし、洗練されていることがこのように横領されうる、という文脈を踏まえる限りは、通り一遍の「洗練」などより、なんの捻りもない直接的な訴えの方が、ずっと「洗練されている」こともあるわけです。

追記

 font-daさんから、次の記事を送っていただきました。>私は鈍感さを肯定しない
 いくつか、応答しておきたいと思います。

  • 「西堂さん個人とが、政治的直接性への蔑視を持っているが故に、ピンターを称賛したというわけではないだろう」という点については、font-daさんを信頼することにします。その上で、政治的直接性への蔑視がはびこる中では、ピンター流の洗練が両義的である、という僕の主張は変わりません。
  • ソンタグについて、手放しで礼賛しているわけではありません。エルサレム賞受賞に際して、イスラエルの占領政策への批判に明確に言及したことについて、それを肯定しています。受賞スピーチ全文に対しては、(些細なものとはいえ)疑問点もなしとしません。また、本件とは別ですが、ユーゴ空爆支持については、判断を保留しています。が、これはまぁ、本筋ではありません。
  • ソンタグによる「ゴドーを待ちながら」の上演を、批判するつもりはありません。そうではなく、そのような「作家らしい」表現こそが、そんな風に「洗練」されているわけではない主張よりもなにか上等なものだと言われるならば、それは違うぞ、ということです。
  • 城田さんの声とは、それはまさに、僕が言う意味での「政治」です。私たちの社会は、それに気づき、応答するべきでした。しかし、しなかった。それは「政治」が欠けていた、ということです。「知性」や「言葉」の問題ではありません。応答する意思の問題であり、それは「政治」の問題だということです。それを「政治と未分化な何か」と言いたいなら、僕は全然構いません。僕が重要だと考えるのは、むしろ「直接性」です。いずれにせよそれは、ユーモアとかアイロニーとかとは、全然関係ないところにあります。

追記の2

……たぶん、私とmojimojiさんは社会認識が違う。「政治的直接性への蔑視がはびこる」社会という認識は私にはありません。むしろ、「政治的直接的性への依存がはびこる」社会という認識です。すなわち、「直接的に政治参加可能な主体」以外は主体と見なさない社会です。それは、直接でなければ、政治性を感受できない鈍感な社会です。

 僕が言う政治的直接性は、別に本人に限らない。金学順さんが訴えたのが政治的直接的なものであるならば、それに応答するのも政治的直接的なもの。学術、芸術その他、方法を問わず。そして、政治的に直接的なものであるならば、それはこの社会のすべての人になんらかの問いただしをすることであり、それはひたすら忌避されている。被害を受けた本人に対しては、その傷をえぐるような言葉が投げかけられ、本人でない場合には、他人のクセに、正義に酔いたいだけ、と言われる。その意味で、「政治的直接性への蔑視」はある。それとは別に、金学順さんのような被害当事者が語ることなくして問題が問題として扱われないような状況はある。その意味で、被害当事者への依存ははびこっているとは思います。「政治的直接性への依存」というのが、このような意味であるなら、この点での社会認識はそう違わないようにも思いますが。

 当たり前ですが、私が城田さんを例に挙げたのは、現在において城田さんが「政治」でないと言いたかったからではありません。過去において「政治」でなかったものが、現在において「政治」になりうる例です。そして「政治」になりえなかった過去にあった営み/また今起きつつある営みを、不可視化する傲慢さを問いたいということです。

 僕の考えるところでは、「過去において「政治」でなかったもの」ではありません。城田さんの声は、過去も現在も一貫して政治です。ただ、それを受け止める政治的直接的な応答がなかった、ということ。

 以上読んでもらった上でfont-daさん自身に判断してほしいのだけど、単に言葉の定義が違うだけであるように思うのですが。政治的直接性とは、被害当事者の訴えのことだけをさしているのではなく、第三者のそれも含めて、明確に政治的な立場を表明することを意味しています(僕が最初に引き合いに出したのが金学順さんであったから、誤解されたのかもしれませんが)。また、政治とは、それが応答されるかされないかによらず、政治です。その形式が洗練されているか否かによらず。