モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

「成果」とはなにか

 「経営がわかっている労働者と、わかってない労働者の格差が拡大していく理由」@分裂勘違い君劇場
 に関連して、昨日の続き。そもそも「成果」ってのがなにか、について。

「成果」の前提条件としての「分配」

 手短に。次の二つのうち、どちらがビジネスとして成り立つかを考えよ。

  1. とある金持ちの、肩揉みをする。
  2. とある貧乏人の、病気の看病をする。

 言うまでもなく、1は(金持ちが肩揉みをしてほしいと思っている限りで)ビジネスとして成り立つけれども、2は(この貧乏人が看病してほしいはずであっても)ビジネスとしては成り立たない。ビジネスとは、「金持ってる奴」のしてほしいことをすることによって成り立つものであり、「金持ってない奴」のためには、何をやってもビジネスにはなりえません。「貧乏人」のために働くことは、完全な、あるいは部分的な*1ボランティアによってしかなしえません。

 で、「金持ってる奴」のしてほしいことをすることは、収益につながり、それがつまり「成果」なわけです。他方で、「金持ってない奴」のしてほしいことをしても、「成果」とはみなされません。金銭の授受がありませんから、GDPにも計上されることもありません。そこでは、「金持ってる奴」のしてほしいことをすることが(それだけが)「成果」であり、それ以外は、趣味かなんかでしかないわけです。あなたが休日に野宿者向けの炊き出しをしたとしても、スタジアムにサッカーの試合を見に行ったとしても、それは金銭の受け取りをもたらす活動ではないという意味でまったく同じような扱いをうけます。

 ふろむだ氏が言うような意味で「成果」をいうならば、なにが成果であるかは、そもそもの所得分配のありように決定的に左右されます。現在の所得分配のありようと同時に、過去の所得分配の反映であるところの資産の分布状況にも左右されます。

厚生経済学的反省の欠如

 たとえば、「A 労働者の負荷を減らす」ことが「B 顧客の不便を増やす」というとき、AとBは本来比較不可能なものです。いわゆる「効用の比較不可能性」ですね。しかし、Aを「節約できる賃金」、Bを「諦めねばならない収益」に置き換えて比較するならば、そのような「置き換え」を認める限りにおいて、比較することができます。そういう話です。いわゆる「余剰分析」とか「費用便益分析」とかが、そういうものなわけです。

 もし、労働者が豊かであるならば、Aは結構大きくなりますが、そうでないならば、過酷な労働でもやめにくいということで、小さくなるはずです。他方、顧客が豊かであるならば、Bは「より多く支払える」ために大きくなり、そうでないならば、逆に、小さくなるはずです。このように「余剰分析」やら「費用便益分析」が、所得分配状況に大きな影響を受けることは明らかだし、経済学的にも常識に属します。*2

 ここでは、「あるものの価値を、そのものの市場価値(=価格)で置き換える」というところで、価値判断が導入されています。では、仮に「あるものの価値を、そのものの市場価値(=価格)で置き換えるが、賃金についてだけ2倍する」というものならどうでしょうか。「その2倍てなんやねん」と、誰でも思うでしょう。そのとおり、まったく恣意的です。しかし、以上二つの価値判断は、どちらがより正しい、ということはできません。だって「1倍」だって恣意的なウエイト付けには違いないわけですから。だから、上記二つの物差しのうちの、また他に考えられる無数の物差しのうちのどれを採用するかは、純粋に「政治的」な問題です。

 どうしてふろむだ氏のような人が「1倍」に同意するかといえば、第一に、「1倍」の物差しにおいて自身の利害が十二分に擁護できるからであり、第二に、全部「1倍」なら恣意的ではないかのような見せ掛けがあるためにゴマカシやすいからでしょう。てゆーか、ゴマカシている自覚さえないんだと思います。「すべての1円は1円に換算する!」っていえば、いかにも公平っぽいでしょ?錯覚に過ぎないわけなんですけど。

 てゆーか、オマエラみんな、ロビンズ読んで出直せ(絶版なのが残念。復刊要望にご協力を。>復刊ドットコム)。

経済学の本質と意義 (1957年)

経済学の本質と意義 (1957年)


 労働者の取り分は、今よりももっと多い方がよいと私たちが考えるならば、そのような分配が可能になるような様々な規制を作ればいい、あるいはベーシック・インカムなどのバイパス的な再分配が併用されればいいわけです(この場合、他の価値よりも、労働者の賃金の、特に下限に対してウエイトを置いた評価をしていることになります)。医療や介護などの生存に関わる基本財が重要だと考えるならば、それが可能になるように、やはり再分配が行われればいいわけです。で、これは全部、私たちの「社会的決定」の問題であり、つまり、社会的な価値選択の問題であり、つまり、「政治」の問題だ、ということ。「すべての1円を1円として数える」を無根拠に導入するということ自体が、政治の隠蔽に他なりません。

 最近出版されているほとんどすべて経済学入門書は、「でも、他に「成果」を測る方法がないんでー」とかいいながら、「すべての1円を1円」を無反省に導入して恥じないという点で、非常に問題があると思います。ふろむだ氏もご推薦のマンキューの教科書なども、見た限りではそうでした。スティグリッツは多少マシですが、十分に注意喚起しているとは思いません。……って、アマルティア・センならいうと思いますよ(逃げ腰)*3

 もう少し、「本来は測れない」ということを強調すべきだ、と思う今日この頃です。

*1:つまり、払えるだけを払ってもらって、あとは取らない、ということ。

*2:で、一部の経済学者は、「費用便益分析は所得分配状況の影響」を受けるのですが、「日本は第三世界に比べて所得格差が小さいので気にする必要はない」とか言うわけです。これ読んで僕はぶっ飛びましたけど。「第三世界ほどには気にしなくていい」はいえますけれども、「所得格差の影響を気にしなくていい」とはいえないわけです。経済学者って、時々信じられないくらい天真爛漫ですから、注意しましょう。

*3:とまぁ、ノーベル賞クラスの経済学者をDISるのは怖いので、同じくノーベル賞クラスの経済学者で権威付けしときます。