読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

イジメの形而上学

 とりあえず、ベースとして、コレ。>「いじめ/ファシズム/引きつった笑い - 過ぎ去ろうとしない過去」

問題は「イジメであったかどうか」ではない

 人の内面は、その人しかわからない。てゆーか、その人にはわかっているのなら、まだ問題としてはマシなんだよな。その人のわかっているつもりの内面が、その人の本当の内面を隠蔽するために捏造されたものだったりもするので、その人のいうことを真に受けておけばいい、というわけでもない(真に受けるしかない、ということはあるけれど)。いずれにせよ、内面はわからない。

 だから、外形に頼るしかないところもあるわけで、いじめとなりうる外形的な状況が発生していたら、「本人がどう思っていようと」それはいじめだと、まずはいってしまう、というスタンスも出てくるだろう。これはこれでわかるけれども、まぁ、乱暴ではあるわな。難しい。

 では、どう考えるか。つまりは、その状況からその人が抜け出すようなことが、実際に可能であるのか、ということを考えるべきだろう。……とまで言っておいて、先回りしておくけれど、「ニコニコ大会議に来なけりゃいいんだから、ニコニコ大会議の中で行われている分には無問題」という単純な話にはならない。第一に、そういうコミュニケーションのあり方を「新しい」「可能性を開くもの」として持ち上げるような言い方をするのなら、それは「中で行われていることだから」という言い訳は通用しない。第二に、そういうことを知らないで来る人というのは、当然にいる。そして、そういうことを知らないで来てもいいはずだ。ウチとソトの境界線は、了解している人にとっては(その人にとって「だけ」は)明瞭だけど、そうでない人には明瞭ではない。「ニコニコ大会議がそういう場所だと知らなくて迷い込んで大勢の前で誹謗されるのは自己責任」とかいうなら、それは通用しない。

 今回のケースでは、「ハゲ」と言われた人が「自分はおもしろがっていた」ということを表明していることによって、つまり、「ハゲの人」の内面が開示されたことで「それはイジメではなかった」と言われているわけだ。ここでhokusyuさんがかなり早くから指摘していたように、それが「イジメに対する過剰適応ではないか」と疑う視線は重要である。あるけれど、それはhokusyuさんが既に言い尽くしているので、ここではそれを真に受けるとする。真に受けた上で問題だと思えるのは、仮にそれがイジメであった場合に、その状況を反転させるような作用が、ニコニコ大会議の中にはまったくなかった、ということだ。あの場のあの人において「イジメであったのかどうか」ということよりも、こちらの方が重要。

※追記2008/07/12:上記「まったくなかった」は言い過ぎみたいですね。訂正します。下記引用参照。

ただ、当日の会場は、決してすべてを笑って済ませようとするお笑いファシズム的空気が蔓延していたというわけでもなくて、ちゃんとコメントの中には、「そんな失礼なこというなよ!」と普通にたしなめる良心的なコメントもあったことは、改めてこの場で強調しておきたいと思います。*1

笑いの複線化、その限界

 イジメになりうる状況を反転させる可能性はどうやって開かれるのか。そのためには、その可能性がコミュニケーションの中に「明示的に」書き込まれることが必要だと思われる。一つには、「それ酷いやん、言うのやめろよ」とハッキリ言ってしまうことがある。ただ、まぁ、「笑い」としては興醒めではあるよな。それはわかる。けれど、興醒めだから、「いじめではない」ことにしてしまうのは、事実から目をそらそうとする態度だろう。そういう「笑い」しか作れないのであれば、「笑い」そのものを諦めたらどうか。

 実際には、別のやり方もある。たとえば、「ハゲ」とか「ピザ」とか書かれているところに誰かが「んなこというなや」とか、「ピザでええやん」とか、「オレもピザ(笑)」とか、「ピザとかゆーてる奴は手羽」とか、「てゆーか話聞け」とか、なにかしら相対化するようなことが「実際に」書き込まれて流れを複線化することである。そのような複線化がなされるとき、笑う位置と笑われる位置の境界線はゆらぎ、関係の固定化を防ぎ、イジメになりうる状況を反転させることも可能になる。……で、こういう反転をさせようとすると、「空気読めよ」とか言ってイジられる対象を固定化しようとする奴っているよね。こういうのは真性のイジメっ子とみなしていいように思う。

 ただし、ここでも先回りして言っておくけれど、複線化が行われれば大丈夫、と言っているのではない。実際、上に例示したようなコメントを挟むだけで反転できている、ともとても思えない。もちろん、そういう反転が難しいような状況なら、興醒めだろうとなんだろうと、言うべきことを言うしかない。あるいは、その難しさは、今回の「ニコニコ大会議」で使われた技術的条件によるのかもしれない。不特定多数が匿名のまま一人に向かっていけるような場では、そういう反転が難しいかもしれない。だったら、そういう技術のそのような使い方を検討しなおすべきだ。当たり前のことだが、こういうことは「笑い」より大事。

 そもそも、人のコミュニケーションというのは、何をどうやってもイジメになってしまう可能性は否定できない、事前に100%排除しておくことなど不可能であると思う。それでも、第一に、その不可能性を自覚しておくということ、第二に、その都度のイジメ状況に風穴をあけたり反転させたりすることは最大限やっておけということ、第三に、最大限やっても、それでもイジメになりうることに対する恐れを忘れるなということ、このくらいはいえるだろうと思われる。

 こういうことを、自覚的にやる必要があるんだよ。なんとなく、では、回避できるイジメも回避できない。少なくとも、「あれはイジメじゃないよ、イジリだよ」と、単に前提するだけであるならば、全然無理だろうな。……で、こういうこというと、「そういうメンドくさいこと、いちいち考えてられるか」とか言い出す奴が出てきそうなので先に、どんだけ脳のキャパ小さいねんカス、といっておく。実際、イジメられてる方はこういうメンドくさいことを山ほど考えてるしな。

その他。

 まぁ、こういう話って、「売春は自由意志でやってるからええねん」vs.「広い意味で強制されてるからダメやねん」という話とよく似てる。その人がどう感じているか、は、ある程度知る必要があるけれど、そこに依存させない議論が必要。その状況から離れることや、その状況を反転させることが「実際に」可能であるか、あったか、という観点から見る必要がある。ってまぁ、これはまた別の話。

追記 2008/07/12

id:Imamu (ニコニコいじめ/いじり)key(状況反転可能性)→1:明示2:流れの複線化///←「空気嫁

 そもそも空気を読んじゃいけないとは思いませんよ。いわゆる「空気読め」が問題なのは、そこで読まれるべき空気として、ある種の空気が特権化されているからじゃないですかね。空気を読んだ上で、ある種の空気を壊したり、別の空気を流し込んだり、ってことをする場合もあるわけで。そういうことを考えずにやれる天然系の人もいて重宝しますが*2、天然系に頼るだけでは足りないなぁ、とは思います。

*1:「ニコニコ現実」のプロトタイプとしての「ニコニコ大会議2008」 - 濱野智史の個人ウェブサイト@hatena」より。ただ、引用先の「ニコニコ現実という話にしても、僕はあくまでそれを基本的には肯定的に受け止めたい」とかは、ちょっとダメ。こういう個人の感想みたいな語り方は無責任。そういう社会がもたらされるなら、「総芸人化社会」とか気持ち悪すぎって思ってる人もそういう社会に住むことになるんだから、ちゃんと「社会に向けて」肯定してほしい。

*2:オマエだ、とか言われそうですけど。