読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

バカへの信を問う

 「十字軍はバカに勝てるか」では、「バカ」の中身をまったく説明せずに用いた(108回も)。では、バカとか賢いとかは、どのように考えればいいのか。何やら本質主義的な定義をしている人もいれば、そもそも「バカ」という記号を忌避して事足れり、としている人もいる。そんな単純な問題ではなかろう、とは思う。以下、述べていく。

「バカ」という記号とその構造

 さて、この記事についての検討からはじめよう。>「あなたの周りにいる人はバカばかりですか?」@Skepticism is beautiful


 僕がある人を指して「バカだ」と言うとき、それは僕の認識枠組みにおいて、その人が、なんらかの不十分さや欠落を持っている人として評価されている、ということを意味する。どういう理由でかは別にして、ともかく、僕の位置からはそう評価されていることを意味する。逆に言えば、「何かが欠落した奴ら」「欠落していない私たち」という枠組みを構成する言葉は、すべて(他者に向かって発せられる場合の)「バカ」の代用品であり、必ずしも「バカ」という記号を使う必要はない。実際、「バカ」という語を使わずに他人をバカにする話法はあまりにもありふれている。

 つまり、「オマエはバカだ」と言うかわりに、「オマエは事実にこだわる方法を知らない」とか「オマエは事実にこだわるやり方に熟練していない」とか「オマエは偏った情報しか知らない」とか言った場合、「事実」とか「方法」とか「熟練」とか「偏った」とかいう語に実質的な意味が付与されていない限り、それは「オマエはバカだ」の言い換えに過ぎないものでありうる。実質的な意味を付与したとすれば、それは「バカ」を定義しているのであり、「何かが欠落した奴ら」「欠落していない私たち」の構図を生み出すという意味で、同じことをしているのである。「身の程を知れ」も「付き合う人を考えるべき時かもね」も、同様。さらに言えば、「私は頭がいいわけではない。ただ、必要な訓練を受けただけだ」という物言いは、「私は賢い」と言っているのと何も変わらない。

 「バカ」という記号さえ回避すれば一安心、というのは完全に錯覚である。大事なのは「バカ」という記号ではなく、そこに作り出されている構図であるが、lets_skeptic氏にはそれは分からない、ということのようだ。──そして、僕はこのように述べることで、lets_skeptic氏と僕の間に、「何かが欠落した奴ら」「欠落していない私たち」という構図を作っているのであり、つまりは、lets_skeptic氏をバカにしているのである。

バカの現象学とその脱構築

 <私>、つまり私にとっての<私>やあなたにとっての<私>は、<私>という位置から世界を見、考え、語るしかない。その外に出ることはできない。その<私>から見たときに、ある人が何らかの不十分さや欠落を抱えた人にしか見えないとき、その評価の妥当さはおき、その人がそのように見える世界の中に生きることしか私にはできない。本当にバカであるかは知らない。それでも、その人がバカにしか見えない世界の外に出ることはできない。残念ながら、これは人の生の基本的条件である。だから、「バカ」という記号を使用しないように抑圧してみたところで、その人がバカにしか見えない世界の外に出られるわけではない。バカとは、<私>の中に現象するものであるから、そこに「バカ」という記号を付与しないとしても、大抵は、代用記号を用いて同じことを表示してしまうのである。

 さて、その人がバカにしか見えない世界の外に出ることはできない。では、どうすればよいのか。決定的ではないにせよ、いくつか有効な心がけというのはありうる。まずは、バカにしか見えないその人も、呼吸をし、飯を食い、悩み、笑い、生きている、という当たり前の事実を意識的に想い起こすことである。また、その人にも生んだ誰かがいて、今、目の前でバカをさらすまでに、歩んできた道のりがあり、一言で言えば歴史があるということを思い起こすことである。その人は単なるバカというだけでなく、バカな人*1としてそこに生きて在るのである。

 こう書けば当たり前のことだが、技術的にもう一歩進めよう。それは(僕においては)次のような具体的な作業のことである。その人の、バカである以外のさまざまな姿を、絵を描くように、想起してみよ。バカにしか見えないそいつが、メシを食い、親しい人と談笑し、書を読んで感動し、といった、一つ一つの場面を想起してみよ*2。人はバカである前に、まず人である。バカであり、かつ人である。

 私たちは、ある人を見て、<私>の中において「バカ」として概念化する。この概念化そのものは避けられない。しかし、その人をバカ以上の何かとして同時に把握するとき、そこに差異が生じる。「バカ」という概念に収まりきらない諸要素が姿を現す。一人の人に対する二つの認識の間を行き来することによって、その人に対する認識そのものを広げ、深めていく。「その人そのもの」という概念を作り上げていく。同時に、「バカ」という概念も深められていく。こうなると、誰かがバカにしか見えないとき、その人がバカに見えていることを認めることは、むしろ不可欠の作業である。

 もちろん、そんな風に見れば、誰とでも仲良くできる、なんて話ではない。別に仲良くする必要があるとも思わないし。いけすかないバカではあっても、そのバカも生きている、ということを確認するだけのことだ。つまり、私自身が人であるのと同じように人であるということであり、人という形式を持っているということである。このことを実感として自分自身に意識させる、必要なことはそれである。

※一言で言えば、重要なものは「想像力」である。ただし、その想像力は、そこに話の分からない誰かがいる、という事実に直面させられることから、喚起されるものである。僕が以前用いた言葉で言えば、その人がそこにいること自体が「呼びかけ」であり、その呼びかけに呼応して想像力を働かせるのである。>参照:「倫理の根源は呼びかけにある」

信をもってバカと付き合う

 バカである前に人であるとは、つまり、私自身が人であるのと同じように人であるということであり、人という形式を持っているということである。人という形式を持つということの、一番重要なポイントだけを言うならば、それは人は変わりうる、ということである。おそらく、あなた自身が、長い、あるいは短い人生の中で、変わってきたことだろう。もちろん、変わらなかったことも多々あっただろう。なかなか変わらないことを知っているだろう。しかし、変わるときには変わるのである。人が変わるときには、一瞬で変わることもありうる。他方で、一つの言葉が、何十年も沈潜して、その末にやっと変化をもたらすということもある。小さなやり取りの記憶が積み重なって、少しずつ変わっていくこともあれば、堤防が決壊するように一気に変化することもある。

 「今、私が語りかけているあなたが、私の見えるところで、私にわかるような形で変わる」ということを望むならば、それは、そんなことを期待する方が間違っているのである。そして、その人が変わるか変わらないかについては、誰であれ、確定的なことを言う資格はない、たとえ何十年語りかけた末の諦観であったとしても、それでもなお、「変わらない」と断言することなど誰にもできない。変わるときには変わるし、変わらないときには変わらない。「変わらない」と断言することはできないし、断言してはならないとも思う。その一線を守るならば、相手がバカにしか見えなくても、語りかけるに値する相手であるとみなすことはできる。

※語りかけることの意義を、「今、私が語りかけているあなたが、私の見えるところで、私にわかるような形で変わる」というような狭い枠の中で考えてはならない。やれることをやり、後は(言うなれば)天に任せるのである。語りかけることの意義を云々することは、多くの場合、単なる不遜である。>参照:「「呼びかけ」は失敗できるか」

 繰り返し引用して恐縮だが、NATROM氏の「どんな言葉もこの母親の考えを変えることはできないだろうが」は、どうしても重い。相当に重いことを言っている。僕はそう思う。NATROM氏のブログを満遍なく読んでいるというわけではないが、少なくとも僕の印象の中では、尊敬こそすれ軽蔑の対象となる人ではない。NATROM氏もおそらく、さらっと書き付けられたのであろうとは思う。多くの人にさらっと読み流されたのだろうとも思う。そこまでの強い主張を、この一文でしたつもりはない、とNATROM氏は言うかもしれない。そう言われるならば、それを疑おうとは思わない。批判を引っ込めるつもりもないけれど。──しかし、たとえば先の記事のブクマの中に、「バカを救おうと足掻いた人が辿り着く諦観だから説得力がある」などというコメントを発見するとき(これに類似した態度は、さらにあちこちで散見される)、このポイントを批判することはやはり必要であったのだな、との思いを強める。「バカであるその人を目的とするようにバカにしろ」と述べるわけである。

 これは、誰かに何かを語りかける前提となる、信に関わることだ。たいした問題ではないとみなされている、みなす人が多いことを承知するからこそ言う。これは重大な問題である、ということ。その重大さについて、もう少し進めて述べるべきことは残っているが、とりあえず必要な構図を示すことはできたとは思うので、ここでいったん終えておくことにする。


※最初の発端となったホメオパシーの問題について。これまでの議論をすべてにおいて、子どもの健康被害に対して緊急避難的な介入をすることを批判したことは一度もない。母親に対する向き合い方、問題における母親の位置づけ方について述べているのであって。

※ついでに言えば、「医療ネグレクト」という用語自体、批判されてしかるべきだとも思う。「ネグレクト」においてネグレクトされているのは子ども自身と子どもの福祉状態であるが、「医療ネグレクト」においてはそのどちらもネグレクトされていない。結果的に、子どもの福祉状態を毀損しているのであって、「ネグレクト」との共通性はない。──用語そのものを使うな、とは言わないが、やはりというべきか、「医療ネグレクト」という用語を使う人において、この違いがほとんど気に留められていないのを見ると、専門用語化されることによるマジックというか、言霊のようなものを感じる。ちゃんとそのものを見た上で記号を使えよ、と言いたい。


【追記】lets_skeptic氏から、トラックバックをいただいた。>「それでも私は彼らをバカなどではないと言い続けるッ!!」
 僕は「バカ」という言葉を定義したわけではなく、「バカ」という記号を用いて何をやっているか、それは「バカ」という記号を使おうと使うまいといろんな人がそれぞれのやり方でやっていることだ、ということを示したのですから、lets_skeptic氏の応答の大半はあさっての方向を撃っています。残念。でも、結論の「彼らと僕らではない。ましてやバカと賢い人なんかでもない。同じ人間なんだから対話しようではないか。」は、基本的には僕はそういうことを言っているのですから、星を50個つけさせていただきました。この記事に対して言いたいことは、以上。です。

*1:人とは、生物学的な人間に限定するつもりはない。一般的には、今の社会の常識的な線においては、生物学的人間に限定して考えるしかないようなところはある。しかし、<私たち>と言いうる範囲の中に、誰あるいは何が含まれるのか、それは考える余地のあることだ。ここではそれを検討する余裕はないので素通りする。

*2:こういう想起は、あくまで自分を基準にした想起にならざるをえない。だから、実際のその人のありようとはズレていることはあるだろうし、むしろその方が多いだろう。しかし、結果として、相手をバカ以上の存在であるとみなすよう自分を方向づけることができればよいのだから、ここでは想起したことの正確性は問題ではない。後に、実際にやり取りしている中で、想起したこととのズレが明らかになったときに、その明らかになった部分において、実際にはこの人はこうであった、と、想起した内容を修正すればよい。さらに、話のついでに触れておけば、やはりそういう想起が難しい人たちも、いる。たとえば、健常者にとっての重度の知的障害者などは、そういう人でありうる。そういうときには、そういう人たちの中にも、おいしいとか、うれしいとか、痛いとか、辛いとか、そういう感情や感覚がありうることを想起せよ。「そんなものはないかもしれない」という疑念の余地は当然にあるが、だからなんだというのか。ここで想起されたことが仮に間違っていたとして、喫緊の不都合が何か生じるだろうか?ないならば、とりあえず「ある」との前提で考えておけばいい。その上で、哲学論議は別にやればいい。