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モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

励ましが自己責任論に似てくる理由

 「逃げ場所はあるよ」@reponの日記 ないわ〜 404 NotFound(暫定)
 「逃げる場所が無いときも確かにある」@オレドコBlog

 一ヶ月近く前に見かけた、興味深いやり取りについて。


 reponさんの「僕は「自己責任論」なんていう、人と人とのつながりを断ち切る冷たい在り方はだいきらい」は本心だろう。でも、それが、オレドコさんには「自己責任論」に聞こえてしまう。こういうことは、しばしばある。reponさんが真実「自己責任論なんて嫌い」と思っていることをreponさん自身は知っているのだし、だから、これはオレドコさんの誤解、誤読に決まっている。──しかし、reponさんは、少なくとも一つ、嘘、とは言わないまでも、根拠のないことを言っている。それは次の部分である。

「ともに生きていこう」とさしのべる手は、今は見えないのかも知れないけれど、きっとあるよ。絶対にあるよ。間違いなくあるよ。

 reponさんは、ここで「きっとある」と断言している。これは違う。もちろん、「ない」と断言することもできないが。正確に言うなら、「あるかないかわからない」としか言いようがない。「ともに生きていこう」とさしのべる手は、あるかもしれない、ないかもしれない。正確に言うならば、こういうことになる。

 ただし、「あるかないかわからない」ならば、場合わけで考えてみればいい、ということもある。「ない」という前提で考えるならば、もうできることは何もない。その時点で終わり。だから、「ない」という前提は、論理的には可能ではあるが、しかし、実践的には無用・無意味だ。他方、「ある」という前提で考えるならば、その「ある」を捜し求めて努力し、運がよければ、そこに辿り着けるかもしれない。だったら、「ある」という前提に立つ方がよい。そうするしかない。──もし、私に、あなたに、「逃げ道に辿り着きたい」という気持ちがまだ残っているならば、「ない」という前提は無用だ。「ある」という前提に立つことにだけ、意味がある。だから、「きっとある」を前提して、何かをなそう。そういう話なのだろう。

 つまり、「きっとある」は、結論なのではなく、前提なのだ。実際に「きっとある」と口にする人の中にも、先に述べたようなことはとっくに了解済みであって、それでもなお「きっとある」と言っているのだ、そういう人もあるだろう。もしかしたら、repon氏自身もそうかもしれない。もともとそういうつもりだったのだ、と、先に僕が示した理路に同意するかもしれない。実践的な問題としては、つまり、結局どうするのか、という意味では、このズレはたいした問題ではない。「きっとある」なら、「ある」という前提で行動するのだし、「あるかないかわからない」なら、それでもやはり「ある」という前提で行動するのだし、結局同じことだ。

 しかし、そもそもの「逃げ道を求めて必死で戦わなければならない」、その状況そのものを問題化するということが、「きっとある」にはできない。「きっとある」のであるならば、社会的には、しなければならないことなど何もないからだ。つまり、困窮者に対する社会的施策なるものは不要である。──だから、方便としてであれ、「きっとある」という言い方には、よくよく注意しなければならない。とりわけ、日本に100万人あまりいると言われる「おくゆかしい」人たちが、「きっとある」を切断処理のロジックに回収しようとして手ぐすね引いて待ち構えているような現状においては。


 では、オレドコ氏のような反応は、この点の誤解が解ければそれで解消する、という類のものであろうか。僕はまだもう一点、足りない、という気がする。

 言うまでもなく、今まさに追い込まれている人たちにおいても、これまで無為でいたわけではない。これまでも、なんとか逃げ道を探して、その人なりの努力が積み重ねられてきたのだ。その間、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び、ということもあったかもしれない。そして、今なお、もがき続けている。つまり、「ある」を前提にしてもがいてきた時間、決して短くはない時間がある。

 「あるかないかわからない」、しかし、延々と探し続けて、それでも出口が見つからないとき、私たちはどう考えるのだろうか。もちろん、「あるかないかわからない」のであるならば、延々さがし続けて見つからなかったのだとしても、まだ、「あるかもしれない」。論理的には、そうなる。「ない」という結論を正当化することはできない。そして、オレドコ氏のような人たちも、そのことを多分知ってもいるのだろう。だからこそ、打ちのめされるのである。

 「希望があることは肯定的なことであり、絶望している人にはそれが見えていないのだろう、だからそれを希望を指し示せばよい」。そんな風に考えられている節がある。確かに、そういうこともある。「あのときの自分は、希望を見失っていた。励まされて、ようやくそれに気づくことができた」。そのように語る人はいくらでもいる。しかし、あらゆる絶望がこれと同じような種類の絶望であるとは限らない。もっと深いところに沈みこむことがある。

 長い徒労の挙句に絶望している人においては、希望はちゃんと見えていることもある。そして、希望があることを知ってなお、絶望している、というよりも、希望があること自体が絶望であるような、そういう段階の絶望があるのだ。希望が見えていないのではない。希望に倦んでいるのだ。そういう絶望の形態があるのだ。このような人たちに対しては、励ますということは、少なくとも合理的な説得ではありえない。励まされることに、何の得もない。励まされることは、なんらかの利益の取得につながることではなく、さらなる重荷を引き受けることである。つまり、「あなたには見えてないところの希望は、実際にはありますよ」と言うことは励ましにはならない。

 ただ、どうして苦しいのだろうか。完全に諦めてしまうならば、後は消え去るのみ、むしろ安らかな境地に達するのではないだろうか。そうではなく、やはり苦しい。それはつまり、希望そのものも苦痛でしかないような場所あって、それでもなお生きる意志が蠢いているからではなかろうか。これはとても弱弱しいが、しかし、残された可能性である。私たちが訴えるのは、この弱弱しい残り火に対して、である。だとすれば、むしろ次のように言うべきなのではないだろうか。「あなたにハッキリと見えているところのその絶望を、引き受けて生きよう」。おそらく、このようにしか言えないのではないか。


 僕は、このように言えば励ますことができる、という答えを示したのではない。言うまでもないことだ。むしろ、僕は励ますことの不可能性を述べたのだ。そして、励ますことの不可能性を直視することだけが、残された可能性に寄り添うことでありうるのではないか。そう考える。その上で、相手がどのように受け止めるかは分からない。再び歩き始めるか、諦めて眠ることになるか、それは分からない。しかし、いずれにせよ、そのどちらかしかない。そして、こちらからできることは、その人に対してできることは、(直接触れることもできるような傍にいて、というのでないならば)もう何もない。──ただ、その人もその一部であるところの社会、その構造に対して何かをなす。この社会のあり方を変える。そのためにできることをやる。そういうことになるだろう。

 その上で、もう一度振り返って、「その人」に向けて述べておきたい。あなたには、逃げ道を見つけるための、状況を打開するための、必要なすべてがあるわけではない。むしろ、決定的に足りない。ただ、その場で立ち上がることだけは、それだけが、できる。そのままひき潰されるか、立ち上がってひき潰されるか、そのことだけは選ぶことができる。そこで僕が望むのは、できるならば、立ち上がってひき潰される方を選んでほしい、ということだ。励ますときに僕が求めているのは、そういうことなのだ。


※関連するような、しないような。いくつかリンク。
 赤議論文についての考察。>「「勝ち組」からの応答──赤木論文を検討する」「「勝ち組」が「勝ち組」に向けて語る」
 上記とも関連して、承認について書いたいくつかの記事。>「承認は分配できるか(財のように)」「既に承認されて在ることを信じる」その2「可能性の問い方」