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モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

左翼の分類学とか、もうやめようって

 「宥める左翼」@sociologbook


 なんとなく同意したいところと、なんとも言えない違和感(かなり強い)の両方がある。最近流行りのスピリチュアルな何かたちはくだらない、あんであんなもんに引っかかるんだろうね、ということには同感するけれども、その先。よくは分かっていない人たちにおいて、科学を信奉することもスピリチュアルなお方を信奉するのも、思考の態度としては基本的に同じことのはずなんだけど、そのあたりをどう考えるのか。

 少なくとも、スピリチュアルなものを信奉していない私が、スピリチュアルなものを信奉する誰かと話すときには、スピリチュアルなものがインチキに過ぎないということを共通の前提として話してはいけない。「俺は、そういうのインチキだと思うよ」とかはハッキリ言うにせよ、「あなたがそれを信じるからには、あなたなりの合理性があるのでしょう」ということは踏まえておかねばならない。それは共に探求すべきことがらであって、前提することではない。「いまお前らが食ってるものはこの世界で手に入るもっとも安くて良質のものなんだ」「ニューカマーの外国人やコンビニの駐車場でたむろする若者をむやみに恐がるのはよくない」ということが、議論を通じて確かめられていく対象としてではなく、共通の前提としていきなり導入されるのであれば、それ自体スピリチュアルなものへの妄信を要求する態度と変わらんし、もっと言えば、「人々の前衛に立って無知蒙昧な大衆を指導し闘い続ける」態度とも変わらない。

 関連することを一つ述べておくならば、若者やニューカマーに対する恐れが先にあり、その恐れを根拠付けるものとして「該当カテゴリによる犯罪増加」という神話が充当されるという構図になっているなら(なっているように思うけど)、神話が神話だと指摘するだけでは足りない。指摘されただけで「そうか、怖がる必要ないんだねっ!」と朗らかに同意してくれる人の方が、僕の経験ではむしろ少ない。本音は「やっぱり怖いものは怖いよね」であるように見える。だとすれば、怖さの正体について、あるいは正体不明な怖さとの付き合い方について、やはり「ともに」探求する、というところを糸口にするしかないと思うのだけど*1、「データ」派はどうやってそっから先を寄り添うつもりなのか。

 問題は、スピリチュアルか科学か、信じ込む対象の問題じゃないんだよ。むしろ、どのようにしてそこに行き着くか、教え込むのではなくともに学ぶ、という「形式の違い」こそが大事だろう。既に述べたように、「根拠のない恐れ」の中にも、学ぶべきことは本来あるはず。そのあたりは、きしさんの教育実践の中では自然にやっていることのはずだと思うけど。


 あと、最後の方の「戦闘集団」、「妥協なきインテリ」とかのステレオタイプには、いくつも噛み付きたいところがあるけど、長くなるのでとりあえず簡潔に。

 今時「人々の前衛に立って無知蒙昧な大衆を指導し闘い続ける戦闘集団」や「声高に社会の腐敗や矛盾を糾弾する妥協なきインテリ」がどこにいるのか、僕は知らない。僕の知る限りでは、大抵はまずは自分のためにやっているのであって、自分がおかしいと思うことについて声を挙げているのであって、「前衛気取り」や「インテリの使命感」みたいなものが、外側から見てるだけで分かるもんだろうか、それ、あんた、見たんか、と聞きたくなる。マラソンのトップランナーを見て「無知蒙昧なランナーたちを指導し走り続ける妥協なきランナー」って言うのと同じくらい頓珍漢と違うか?*2

 確かに鼻持ちならない「前衛気取り」や「インテリ使命感」みたいなものを持っている人はいるから*3、いない、とは言わないけれども。しかし、第一に、それってそういうその人を個別に批判すべきだよね。第二に、そういう自分の判断ってまったく主観的なものであるから、誰のどんな発言が「前衛気取り」「インテリ使命感」ぽいものに見えたのか、具体的に提示して批判しないと。少なくとも、十把一絡げにステレオタイプに揶揄して済むようなもんではなくて、やはり、個別に、具体的に問題にしていくしかないんじゃないかと思う。そもそも、そんな風にステレオタイプを言って済ませてるふるまいって、「前衛気取り」や「インテリ使命感」そのものじゃないか。無知蒙昧な「闘う左翼」を指導して戦い続ける戦闘集団。声高に「闘う左翼」の腐敗や矛盾を糾弾する妥協なきインテリ。どこが違うんだ。

 ついでに言えば、前衛気取りだろうとインテリ使命感だろうと、あろうとなかろうとどっちでもいいと、個人的には思ってる。支援対象をないがしろにする支援者には辟易するとしても、それって、支援対象者を理解したり寄り添ったりするつもりがないところに問題があるのであって、前衛気取りだろうと使命感があろうと、ちゃんとする人はちゃんとしてる。そんな気取りがなくても、ダメな奴はダメ。そういうことなんじゃないの?

*1:ただし、「ともに探求する」という字面から、和気藹々としたやりとりを想像してはならない。イメージがわかない人は、プラトンの対話編をどれでもいいから読んでみるとよい。

*2:そもそも、そいつ、マラソンに参加しているのですらないかもしれん。

*3:僕にそう見えた、ということでしかないけど。それでさえ、そうそうお目にかかれるものでもない。