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モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

「想像力」それ自体の他者性

 sivadさんよりお返事。>「想像力と倫理についての三者三様」@赤の女王とお茶を
 ほぼ、すべてに、同意しない。疑問点を整理する。


【追記:後半部を、一端削除。】

認知させればそれでよいというのは、例えば選挙の際の「連呼」は常に成功だ、というのと似ています。

 第一に、「認知させればそれでよい」などと述べたことはない。「認知させることには、それ自体で肯定的意味があり、それに他の何が付随しようとも(たとえば受け手の不愉快な気分など)、認知させること自体の持つ意味を打ち消せない」ということを述べている。「その他の付随するもの」について、考えることが無駄だと述べたことはない*1。ただ、「その他の付随するもの」と「認知させることそれ自体」は、対立しようがない、前者によって後者の価値を否定できない、ということを述べている。

 第二に、「選挙の際の「連呼」は常に成功だ」と、本当に言えないのか、ということだ。僕は、端的にこのことについて「分からない」としか言いようがない。どうしてsivad氏はこのように確信を持って言えるのだろうか。これを「そんなの考えるまでもないじゃないか」と言う人ほど、きちんと考えるべきである。むしろ、こういうことをきちんと考えないから、僕がここで何を述べているのかが理解できないのじゃないか、と思う。

生命と倫理について思索することを生業にするkanjinaiさんですら、ある対象については「想像力」をカットしようとしています。もちろん対象を「知って」いる以上は0ではないと思いますが、同様のアプローチをしている限りkanjinaiさんの「想像力」がそちらにより多く振り向けられることは考えにくい。

 たとえば、フラッシュバックというものがある。逆に、何かがどうしても思い出せない、ということがある。自分の記憶そのものが他者性を持つ、という指摘自体は別に珍しいことでもなんでもない。同様に、そもそも想像力(と呼ばれている何か)は、その人が行使したりしなかったりすることが可能な、つまり操作可能な何かとしてあるのか、ということが問題なのだ。想像したくてもできないことがあるように、想像しまいと思っても想像してしまう。想像力(と呼ばれている何か)は、そもそも「○○力」などと操作可能な何かとして表象しうるものなのか、ということなのだ。kanjinaiさんが「カットしようとしている」のは知っているけれども、では、「カットできているのか」ということなのだ。

 この引用部でsivad氏が言う「考えにくい」は、想像力(と呼ばれる何か)を操作可能な「力」として理解するフレームワークの中で「考えにくい」という意味でしかないが、僕が疑問を呈しているのは、そもそものそのフレームワーク自体なのだ。想像力を、主体の一部と捉えるからそうなる。想像力自体が、そもそも他者性を持つのではないか、という話なのだ。


 sivad氏は冒頭、次のように述べている。

まずmojimojiさんのご意見ですが、mojimojiさんは「切断」や「想像力」というとき、あまりにもall or nothingで捉えておられるように思います。/つまり、「0か1か」という文脈で常に語っているように見えます。/……/しかしながら、1が10になることもあれば、0.1になることもあるのです。

むしろ、All or Nothingの文脈と、量的差異を考える文脈は、区別した上で、両方について考えていいはずだ。実際、「1が10になることもあれば、0.1になることもある」という話を、僕は考えないではない。と同時に、All or Nothingの文脈ではこうなっている、ということを別に述べているだけである。そして、それは重要な論点である。逆に聞きたいが、なぜsivad氏は、まるで排他的な論点であるかのように語るのだろうか。

*1:つまり、「0か1か」という問題について焦点を定めて検討しているとしても、「0.1や10」を考える議論が無駄だと述べたことはない。