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「呼びかけ」は失敗できるか

 sivadさんから、再びトラックバックをいただいた。>「真実と倫理と責任と。」@赤の女王とお茶を
 sivad氏の記事は「成功/失敗する呼びかけを分ける」ことが前提されているが、これがそもそも分けられるのか、あるいは分けることが何を意味するのか、という問題である。これはkanjinaiさんとの間の論点になっている他者と他者でない者の分離(不)可能性の問題ともパラレルである*1。──以下、まず、呼びかけが作用する仕方をもう少し丁寧に検討した上で、成功/失敗する呼びかけを分離しない道を主張する。関連して、切断操作という概念にまつわる一つの誤解を指摘する。

呼びかけはどのように作用するのか

結局、「感じない人」や「どうしても感じてしまう人」に対しては倫理的な呼びかけ自体が「役に立たない」といえるでしょう。

となれば、「多少は感じる、あるいは感じるけど切断できる人」に対してどう呼びかけるか、が最も重要なポイントになります。

「感じない人」が、「何を言われても感じない人、感じる可能性のない人(A)」であるならば、それは同語反復的に「何を言っても感じない(役に立たない)」ということになる。当たり前のことだ。しかし、実際に「感じない人」が「感じる可能性を持つが現に感じていない人(B)」のことであるならば、その人への呼びかけが「役に立たない」とは言い切れないだろう。これも当たり前のことだ。そのことを踏まえて、次のことを確認しよう。──「現に感じていない人が(A)であるのか(B)であるのかは、知りえない」。区別ができないのなら(B)だけに選択的に呼びかけることなどできはしないのだから、(A)・(B)両方に呼びかけるか、両方に呼びかけないか、にしかならない。そして、両方に呼びかけることは、(B)に呼びかけることになるのだから、「役に立つ」だろう。

 次に、「どうしても感じてしまう人」について。どうしても感じてしまうとしても、その人は「感じてしまうことをできるだけ思考せずに、より深いレベルで隠蔽している(C)」のか、「思考し、言語化してしまっていることを、できるだけ考えないようにしている(D)」のか、それ以外の様々な局面で、様々な手法で「感じる」を変形・隠蔽していることはある((E)、(F)、……)のだが、その変形・隠蔽のありようを揺らがせるものとして、呼びかけは作用する。どうしても感じてしまう人が、それをきちんと言語化して自己の中で位置づける=飼いならす(少なくともある程度)ために、様々なレベルでの呼びかけを必要とすることがしばしばある。自分でも着手すべきことが分かりきっているのにできないのだが、それを他者から指摘されることによって初めて動き出せる、というようなことを僕などはしばしば経験する。

 もちろん、そのような他者の呼びかけなしに、感じてしまったことを思考し、言語化し、自分の中に位置づける作業を粛々とやっていることもあるだろう。その人に対しては、呼びかけは、そのような作業を促すという意味で役に立ったりはしない。ただ、その人にとって、その呼びかけは「私に同意する他者」、私に同意しないこともできる他者が私に同意してくれている、ということであり、それはその人を励ますことになりうる。その意味で「役に立たない」と言い切ることは、ここでもできない。

 以上述べた枠組みの中では、既にある程度は「多少は感じる、あるいは感じるけど切断できる人」も含めて考えているが、sivad氏への反論として強調しておくべき点は、「まったく感じない人」に対しても、また、「感じている人」に対しても、呼びかけが意味を持つ(持ちうる)という点である。「「感じない人」や「どうしても感じてしまう人」に対しては倫理的な呼びかけ自体が「役に立たない」」とは言えない。ここではそのことを述べた。

呼びかけの成功/失敗とは何か

 次に、先の引用部の後段に関連して、別の批判を行う。「「多少は感じる、あるいは感じるけど切断できる人」に対してどう呼びかけるか」において、「「多少は感じる、あるいは感じるけど切断できる人」に対して」という限定は不要である。前段述べたことはこのことである。その上で、「どう呼びかけるか」が問題になる。この点、sivad氏は次のように述べている。

私はそれが「切断操作」を引き起こすような「呼びかけ」であれば失敗であり、より深くかつ実際的な思索をもたらすのであれば「成功」といえるのではないかと考えます。
……
が、そのためにこそ、因果関係と責任関係を峻別する必要があるのではないか、というのが私の考えです。徒に「責任」を振り上げることは切断操作を招くだけではないかと思うのです。

 ある種の呼びかけが、まずは反発を引き起こし、人を問題への取り組みから遠ざけ、しかし、語られた言葉は人の心の中に残り、忘れる事が出来ず、そこから初めて問題への関わりへ向かう、というようなことがある。このようなプロセスは、10年、20年単位で起こることもあるし、一瞬で終わることもある。──では、sivad氏が言うような成功/失敗は、いつ、いかなる手法で、誰が認定することなのだろうか。

 自己欺瞞の中でも人は考えてしまうものだし、忘れてしまっても、それは必ずしも消え去ったことと同じだとは言えない。反発は、無知や無関心より可能性を秘めている。というのも、あらゆる論理的思考はその出発点において無根拠な前提を必要とするが、反発はその無根拠な前提たりうるからだ。無知や無関心はそのようなものにはなりえない。だから、とにもかくにも誰かの注意をひきつけてしまう呼びかけは、それが反発を呼ぶとしても、そう簡単に否定できないことだ。sivad氏的な成功/失敗レジームは、こうした側面をまったく評価しない。それは間違いであるし、同時に、傲慢である*2

 だから、逆に、あらゆる呼びかけは、なされた時点で既に、成功である。この断言は独断的ではあろうが、しかし、ある種の呼びかけを「成功」、「失敗」に分類する独断よりも独断的であるとは言えない。その上で言えば、第一に、よりよい成功を模索することは可能であるから、それは考えられるべきである。第二に、その呼びかけが誰かを追い詰めてしまう(しばしば破滅させてしまう)というような、別の意味での失敗の可能性はあるから、これは別途考慮されるべきである*3。しかし、呼びかけが人を揺るがし、そこに何がしかの可能性を生み出すという意味においては、呼びかけは失敗することがない。──というよりも、そこにしか、僕らのチャンスはないのだ。「そのとおりだ、話すということが、ぼくらに残された唯一のチャンスだ、話すということが僕らのチャンスなのだ」*4


 関連して、切断操作について考える。sivad氏に想定されているのは、「切断されていなかったものを、切断する」という相である。切断されるものは、切断される前にはつながっていたかのように前提されているのだ。しかし、このような見方がそもそも間違いである。切断操作とは、「無言のまま切断操作していたものを、明示的な言葉によって切断操作する」ようなふるまいなのである。

 人々は、常に、無言のうちに切断操作している。呼びかけは、無言であることを許さない。切断操作のために、言葉が費やされる。それは言い訳であったり、逆ギレであったりするが、いずれにせよ、そのふるまいが、結果として様々なことを示してしまうだろう。また、言葉として何も話さないとしても、言葉が投げかけられてそれを無視するふるまいが結果として様々なことを示してしまうだろう。その示されてしまったものが、次の呼びかけの橋頭堡となる。隠れていたものがそこに浮かび上がるのである。だから、切断操作を引き起こす呼びかけは、多大なる成功であるとまで言えるかどうかは評価が分かれるとしても、少なくとも失敗とは言えない。──この点は、ある種の呼びかけを「失敗」として非難する言説がよく陥る誤謬である。この誤謬を振り払ってみるだけでも、呼びかけの成功/失敗の評価は大きく変わるだろう。


 最後に、予告のような。「科学は単純な営みではない」と言われるのだが、それはその通りなのだけど、紹介された記事の内容には同意できない。若干技術的な問題だけど、これは別稿で述べる。

*1:たとえば、http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070529/1180428267#c1180576639

*2:非‐右派を自称する左派批判の多くが、この意味での間違い・傲慢さを共有しているのは、なぜであろうか。彼らの主張と、彼らが一様に見せる「戦略」(それも短期的な)へのこだわりには、一見して関連性がないように見えるのだが。

*3:考慮する余裕がある者、に限るが。

*4:モーリス・ブランショ『終わりなき対話』より。