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野宿者問題を理解すること、その2

 「野宿者を怖がること」、こういう気持ちが生じることを事実として受け止めよう、そういう趣旨のことを書いた。これは、そのような感情を肯定する、ということではない。そのような感情が存在することは事実であるから、それを出発点にすることはどうしようもないことだとまず認めるしかない、というくらいの意味だ。差別感情も含めて、人が何かを感じてしまうことには、どうしようもなくそう感じてしまう、という面がある。

 「そういう感情も社会的に構築されているのだから、解体可能だ」と述べてみることに意味がないわけではない。しかし、社会的に既に構築されてしまって生きているその人にとっては、社会的に構築された自分自身から出発するほかはないわけで、解体するにせよ、まずはそういう自分が存在しておりそこから出発するのだ、ということを前提するしかしようがない。あらゆる差別者の存在を、僕はまず肯定する。そして、そこからどこへ向かおうとするのか。そういう物差しで人を見たいと思う。


 そのことを確認した上で、同じことを反対側から見てみよう。私たちが痛みを感じるときに望むことは何だろうか。「痛い?」と聞いてくれることだろうか。それもあるだろう。しかし、「聞いてくれること」を望むのは、痛みを「分かってもらうこと」を望むからだ。もっと言えば、痛みを「取り除いてくれること」を望むからだ。だから、聞くまでもなく直接に、痛いということを分かって欲しいし、痛みを取って欲しいのだ。それこそ、エスパーのように。それこそが、痛む人が本当に望むことである。

 そんな無茶な、と思うだろうか。しかし、そんな無茶なことを望むのが当然のことなのだ。無茶に応えることはともかく、この無茶な願いを理解することは難しいことではない。しかし、人が痛みを告白するとき、それを聞く私たちはつい、告白するその瞬間以前において、その人がその痛みを一人で抱えていたことを同時に知るはずである。そのことを悲しく思い、どういうことか申し訳ない気持ちにもなってしまうものである。だから、その無茶に応えたいと思うのは、私たち自身の願いでもあるはずだ。まずはそのように言い切っておこう。


 この無茶に応えることが私たち自身の問いであるならば、私たちにとっての問いは次のようなものではない。すなわち、野宿者の問題とはこうこうこういうもので、それを理解したならば、こうこうこうするべきだということが分かるよね、という類の問題ではない。理解に基づいて何かを合理的に処理する、という類の問題ではない。少なくとも、それだけではない。より根源的な問題は、私たちがそうした問題について知らないときに、知らないにも関わらずそれが問題だと感受することはいかにして可能なのか、ということだ。私たちの問いとは、理解に先行して答えを発見することはいかにして可能か、ということなのだ。

 無茶な言い草に思えるかもしれない。しかし、まったく希望がないわけでもない。生田武志『<野宿者襲撃>論』(asin:4409240730)の中に、次のような印象的なエピソードがある。

今年は、全国各地で野宿者襲撃事件が頻発した。北九州においてもそのような事件は後を絶たない。ある年深夜になると中学生らしき少年二人組が毎夜自転車でやって来て寝ている野宿者めがけて投石を繰り返すという事件が起こった。たまりかねた野宿者のAさんと一緒に付近の中学校を訪ねた。「すぐに処分するから誰が犯人か教えなさい」と息巻く校長に「投石している子どもたちだけの問題ではない。学校が取り組む課題ではないのか。処分して解決しようとすること自体が間違っている」と食い下がる私たち。怒鳴り合い寸前のやり取りの中、投石をされていた本人であるAさんがポツリ呟いた。「連中を責めんで下さい。夜中の一時、二時になって町を自転車でウロウロする。連中は、家があっても帰るところが無いんじゃないか。帰るところの無い者の気持ちは(ホームレスである)自分にはようわかる。・・・(pp.158-159)*1

 Aさんの呟きから私が読み取るのは以下のことである。すなわち、Aさんは、「中学生が夜中の一時、二時に町をウロウロしている」という事実から、「街の中をウロウロすること」よりも居心地のよい場所をもたないという構図を想像し、それを思いやっているのである。だとすれば、私たちも同様にできないのか。つまり、こうだ。私たちの生のあり方は多様である。しかし、多様さを支える何かについては、言うほど多様でもない。つまりは、僕らは食うし、呼吸するし、排泄するし、寝るし、生きている。だから、それらをなしうる条件を欠いている人を見て、直接に問題の所在を感知すればよいのだ。その人に「家が無い」という事実から直接に、「何かがおかしい」と把握するのである。

 もちろん、この直感は誤りうる直感である。おせっかいでありえるし、パターナリズムでありえる。しかし、私たちは直感に従って実際に問題の所在を探り、その結果として直感の誤りを後から知ることが可能である。重要な事はむしろ、問題の所在を直感することが、問題の探求の前提になっている、ということである。このような直感なきところでは、実は問題を探ること自体がなされない。よって、いつまでも知られないことになりかねない。そのことを恐れねばならない。だから、この冒険的な直感は、誤りうるとしても欠かすことのできないものである。私たちが野宿者問題を理解するとは、それぞれのやり方で、この冒険的直感にコミットすることだ。私たちはここに賭けなければならない。

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*1:元は奥田知志・バプテスト東八幡キリスト教会牧師「引き受けへの召し──ホームレス支援の現場からクリスマスを読む」『教師の友』日本基督教団出版局、二〇〇〇年一二月号からの引用。